映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最近見た映画(その12)

〇『関ケ原』(2017/日本/原田眞人

たたみかけるようにセリフを捲し立てつつ動き回る役者、またそれを細かいカット割りで見せ続ける画面がとかく忙しなく見る者の意識につきつけられるが、そのぶんやはり視線にとどまるところの像は結ばれにくく、忙しなさからしてその人物群像もまるで現代の会社組織人達のそれのようにも見えてくる。

たとえばまともな視線の切り返しがどれだけあったか。主役であるところの三成と家康との間にさえそれはない。あるいはそこにそれがないのはむしろ自覚的な演出でさえあるかのように、三成も家康も敢えて互いから視線を逸らすように見える。人物群像を捌きつつ敢えて個と個の決定的な対決の場面は描かなかったのは、「関ケ原」にまつわるドラマを集団劇としてのみ構成したかったからかも知れない。

だがそれで、いったい人間の歴史なるものは動くのか、とは思える。終幕に三成がのたまう「正義」とやらの内実がどれだけ見る者につきつけられたか。あるいは歴史なるものはともかくとして、映画の作劇として大事なセリフがその内部に根差していないように見えるのは、まず失敗なのではないか。

 

〇『機械』(2016/インド=ドイツ=フィンランドラーフル・ジャイン)

YIDFFコンペティション作品。

映画の冒頭から、キャメラがインドの織物工場の内部を縫うように進んでいく。その中で垣間見える工場内の具体的なディテールは、たしかにあちこちにカットを割るよりもそのなめらかなトラヴェリングの撮影の持続に於いてこそ(それがたとえステディカムだったにしても)、如何にも工場内に流動する独特の空気のようなものを見る者に把握させうるように見える。そして薄暗く翳って見えるその工場内に於いて、インドの労働者達の黒い肌が如何にもつややかな汗の玉をしたためつつを立ち働き、あるいは黙して座し休み、またつかの間ぐったりと寝転がりもするその様子は、工場の産物である色鮮やかな織物のなめらかな質感に柔和に包みこまれるように描出される。審美的ではあるかも知れない。しかしその映像的な独特の空気の把握は何かしらある程度たしかな感覚を感触させもする。

余談的には、監督はインドでは裕福な家庭の出身で幼少の時分から自家の経営する工場の内部を散策して歩いた原体験的な記憶があるそうで、あるいはこの映画の工場内の描写の、社会的な主題性には沿わないようにも見える官能的とも言えるイメージの豊かさは、そんな原体験的な記憶に由来する感覚の賜物ではあるのかも知れない。

 

◎『オラとニコデムの家』(2016/ポーランド/アンナ・ザメツカ)

YIDFFコンペティション作品。大賞受賞。

ドキュメンタリー映画ということになるが、しかし実際の画面に映るオラという少女にせよその弟のニコデムという少年にせよ、あるいはその父親、母親、友人たちにせよ、全くキャメラの存在というものを意に介さないというのは、どういう賜物によるものなのか。ともあれ、キャメラはそこにあり、あまりに自然な「役者」達の実存をくまなく画面に収めていく。

たとえば家族がつかの間そろって屋外のテーブルを囲んで食事するシーンがある。そこではよくあるホームドラマよろしく、キャメラの位置はちゃんと囲みを開くかたちでそこに据えられている。それはまがうことなき演出的示唆の痕跡の一部ではあるが、そんな「演出」は、じつは映画の始祖としてのリュミエール映画にだってあったわけで、そのリュミエール映画がだいたい劇映画なのかドキュメンタリー映画なのかを問うことに意味がないとすれば、この映画がそのどちらなのかを問うことにもあまり意味はないということになる。要はそれを見る者は、ただ劇中の「役者」達を見入るに専念すればいいし、実際見入るに値する魅力的な素振りをその「役者」達は演じてくれる。

自閉症の弟ニコデムが風呂に入っていると、姉オラと父親がなにやら別居している母親のことで口論している。口論しているその音声をオフに響かせつつ、キャメラは飽くまでバスタブに身を沈めてその口論に耳をそばだてているニコデムの姿を接写で捉える。この映画の演出は、つまりこういう機に臨んだ選択を可能にする対象となる家族との距離の圧倒的な親密さの賜物なのかも知れない。そんな圧倒的な親密さを保ちつつ、けれどもドキュメンタリー映画の取材者は、飽くまで対象となる家族の関係に直接的には介入しない。

キャメラの存在が全く対象の日常に溶けこんでいくことで、なんの作為もないまま素の人物が画面の中で「役者」に仕あがってしまう。取材者が最低限ほどこす演出的示唆もまた日常に溶けこんでいるからこその紛いなき現実、その結実としてその画面はあるかに思える。

 

〇『山の焚火』(1985/スイス/フレディ・M・ムーラー)

姉弟、父母、祖父母の三世代、三組の男女だけが人物として登場する。

山間の谷間を挟んで遠く離れた祖父母の家の様子を姉弟は双眼の遠眼鏡を使って眺めやる。あるいは弟が手鏡に太陽光を反射させてちょっと離れた場所にいる姉に合図したり、祖父から託された拡大鏡で弟は祖父や姉の顔をのぞき込む。また姉弟が許されざる結びつきに身を委ねようと抱き合う時、姉の姿見がその狭間にさしはさまれる。それら「見る」道具を介することで現に何が見出されるのかと言えば、けっきょくは自分とよく似た家族や、あるいは自分自身の姿であったりする。姉と弟は成行の中、奇妙に自然にそんな関係になるが、しかし夜のあけたその臥所の中で、不意に二人は互いに目と目を見合わす。

雨、風、あるいは霧や雪という自然現象が、やがて超自然的ななにかをひきよせるかの如くに描かれる。なぜなのか判らない。判らないが、この世界でならそんなことが起こっても不思議ではないという世界がたしかにそこに映し出される。

単なる性的嗜好としてのそれではない、愛執の実現としての近親相姦はじつは人間本来のありかたなのではないのか。この物語に描き出される、父母を殺めて子供達が新たな父母となりかわる閉塞された世界は、ふたりにとって地獄であると同時に天国でもある。生きることを欲しながら同時に死ぬことをも欲するような、外に向かって開かれることを欲しながら同時に内に向かって閉じることをも欲するような、そんな自己矛盾する欲求がしかし倒錯ではなく人間本来のありかたなのだとしたら、その社会性に背く個体としての欲求は抑圧されねばならず、故に禁忌となる。何やらそんな思案をひきだす物語ではあり、その物語が息づく世界を映画はたしかに構築しえているかに見える。

 

△『彼女の人生は間違いじゃない』(2017/日本/廣木隆一

 たとえば、長廻しがカットを割ってショットを見出すことが出来ないが為の長廻しに見え、クローズアップがショットとして人物を示すことが出来ないが為のクローズアップに見え、人物達のセリフ回しは如何にも説明的に聞こえ、また不意に挿入される原子力発電所や核廃棄物処理場の映像は具体的な物語へ止揚されることもない。情緒的、恣意的に過ぎるのではないか。

新潟や福島といった地方と東京との距離関係の意識は、たぶん外国に住む人間には判らないものではある。その意味では飽くまでもローカルな映画ではある。だがだとすれば、この映画はもっと具体的に場所と場所との関係、その懸隔をこそ描き出すべきではなかったか。それをほとんど人物のセリフなどを介した示唆的な描写だけにとどめるのでは不足と思える。

 

〇『ベイビー・ドライバー』(2017/アメリカ/エドガー・ライト

ミュージカル映画とMTVの違いはどこにあるのかと思案するに、恐らくミュージカル映画はアクションを契機として音楽が牽引されるのに比し、MTVは音楽を契機としてイメージが喚起されるところにあるのではないか。MTVでもアクションがイメージとして画面を跳梁することはあるにせよ、それは音楽主体であるだけイメージとしてまず流通しなければならず、であるからにはその映像は音楽に従属的であらねばならない。ミュージカル映画はむしろ役者なら役者の具体的なアクションを契機として音楽が牽引される。タップ音が鳴るのは足がタップを踏むからであり、その逆ではない。これはミュージカル映画の音楽は映像に内在しているということでもあり、その意味ではミュージカル映画に限らずすべての映画は音楽を内在するとも言える。つまり映画はそのサイレント時代からして音楽を潜在的に胚胎していたということ。

このカーチェイス映画の映像は、音楽に従属的に展開されるその意味ではMTV的だと言わざるをえない。アクションが音楽を喚起するのではなく音楽がアクションを喚起するという仕掛けは、映像独自のリズムやタイミングに由来しない。それはアクションに直結していないという意味ではエモーショナル足りえない。むしろ主人公が一時的に車を降りてつかの間自力で走り回り逃げ回る場面の方がよほどエモーションを喚起するように見えるのは、何より具体的なアクションがそこにあるからではないか。もしカーチェイスでよりエモーショナル足りえるアクションを期するなら、主人公の青年はもっと悲痛な程に徹底した音楽狂かつ運転狂であるべきだったのではないか。つまり音楽と自動車と怪物的に一体化した実存としてそこに活かされるべきだったのではないか。

一言で言えば生ぬるい。