映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

散歩する侵略者(2017/日本/黒沢清)

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「概念」を「奪う」。まずこの大前提からしてあまりに抽象的ではある。抽象的であるが故に、つまりは「画」になりにくく、結果映画は抽象そのものとしての言葉=セリフのやりとりにこそ、依存することになる。

たとえば「家族」、「所有」、「自由」、「仕事」etc…。それら本来なら現実の諸事実から帰納的に導出される筈の抽象としての「概念」が、逆にそれ自体が何らかの本質であるかの如くそこに措定されて、そこから演繹的に導出される言語的な記述(ともなうその内的なイメージ?)が、恰もその“正解”であるかの如くに「奪われる」ことになる。これは端的に、映画に向いていない。「概念」が「奪われる」場面に於いて、人物同士の対峙する様子がほとんど演劇的な段取を演じているように見えてきてしまうのもさもあらんで、そこでは言葉は無の認識に至る為に最終的に棄て去られるべき道具(『CURE/キュア』の間宮に於ける如く)ではなく、本質それ自体を担う認識の当の目的に化してしまう。

当の目的と化した言葉はそのやりとりの中で抽象としてうかびあがり、言葉自体のまわりをめぐっているだけの空疎な認識が事象そのものの認識ととりちがえられてしまう。映画が現実の諸事実から非言語的な具象に於いて描出すべき抽象が、作劇に於いて先取的に前提されて主題化されるから、映画は描出される筈の具象を見失わざるを得ない。

 

が、そんな本来なら非映画的なまどろっこしさが、逆にこの映画の唯物論的な抽象性に転化されなくもないのが、不思議なところなのでもある。唯物論的な抽象性とはそれ自体語義矛盾のようでもあるが、抽象の理解に堕する筈の非映画的なまどろっこしさは、こと「愛」という極端な抽象的「概念」をめぐって言語それ自体の表示的な具象性へと向かってむしろ洗練されることになる。なんとなれば「愛」は「愛」でしかないという、文字通りのみもふたもない言語それ自体の現実性。

当たり前なら、あれでありこれでありそれでありといった具体的な描写が重ねられることで映画を観る者に内的に把握される観念的な感触である筈のものが、単純に「愛」という一語に逆説的に収斂させられてしまうことで、「愛」は「愛」でしかないという文字通りの言語それ自体の表示的な具象性が、そのまま概念自体の唯物論的な抽象性を証だててしまう。「愛」は何物にも還元されない。還元されないそれ自体としての現実性が、「概念」として観客に見えないところから見えないところへ確かに受け渡される様を、むしろ観客は「見る」。

この映画の作劇全体が、帰結的になぜかある種の感動の感触を与えうるのは、「概念」を「奪う」というアトラクションの本来は非映画的なまどろっこしさが、徹底的に抽象的な「愛」の「概念」の前で空転し、それに於いてむしろ「愛」は「愛」でしかないという抽象性それ自体の表示的な具象性が、事象そのものの認識になりかわってしまうからではないのか。

 

劇中長澤まさみ演じるところの妻は、けっきょく現実に生起する事象に向かっては何もなしえない。何もなしえないままいたずらに空転し、どうしようもないまま何物にも還元されない「愛」をだけ、松田龍平演じるところの宇宙人化した夫に受け渡す。こんな図式的で陳腐な話がなぜ妙に慈しむべき話に見えてきてしまうかと言えば、それはまさにそれが図式的で陳腐な話として臆面もなくそのままに描き出されているからだ。

黒沢清の映画=世界は、恐らくいつも結論ありきなのだ。現実的=相対的諸事実からの尤もらしい帰納的な帰結としてではなく、演繹的な絶対性の元に事象が図式化される、黒沢清の映画=世界。愛こそすべて、みたいな単純率直な絶対性の観念(『大いなる幻影』)、その自由。

 

『CURE/キュア』に演じられた如き概念奪取はしかし言語を本質的な前提とするかぎりは茶番に如かず。概念を奪われた人々の奪われたが故の解放の様々は、やはり図式的で陳腐になるが、それ故に妙に微笑ましくも見えてしまう。『回路』に描かれた如き終末絵図はしかし呆気なく「愛」の前に頓挫するかぎりはやはり茶番に如かず。それでも二人は黄色い車に乗って「行けるところまで行く」。終末の光景を夕陽と見違えるのではなく夕陽を終末の光景と見違えることは、端的に肯定的な世界の存続の感覚をこそ暗に示す。

長澤まさみが素朴に年相応の妻を演じているのは慕わしく。松田龍平は“目覚めた”瞬間、確かに“目覚めた”表情を見せていた。

 

何気に爆撃機と人物との対峙・対決の場面には胸躍るものあり。爆撃機が突如頭上を飛び抜け、人物の視界の先でゆっくりと旋回しつつこちらを狙い撃つべく向かってくる図、運動する物体のシルエットがもの言わぬままほのめかせる瞬間の意思、その微かな戦慄のきざしに胸躍る。ふっとばされる人物の影がしっかり爆炎の中に映るのもいい。