映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

FAKE<ディレクターズ・カット版>(2016/日本/森達也)

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猫が頻りに画面に姿を見せる。誰でも気がつくが、しかし何故猫なのか。むろん「猫」であることに殊更意義や意味が認められるわけでもない。それは意義とか意味とかいう尤もらしい判然とした観念とは一見して無縁で、周縁的、付随的な細部に過ぎない。だがだからこその猫なのだ、とは言える。たとえば夫妻の夕食風景での豆乳なり、来客の際のテーブルの光景なり、まどろっこしい「通訳」の段取なり、ベランダで吸われる煙草なり、走り抜けていく近所の電車の轟音なり、猫と同様、一見して真偽の黒白をつけようとする世間的な関心に於ける「意義」や「意味」とは無縁で周縁的、付随的な細部にしかならない。だがそんな細部をこそ、この映画は映し出すべきものとしてそこに切り取って見せる。切り取って見せるそのやり口は、すでに制作者の意図の範疇にある限り演出的な手管だとは言えるが、だからと言ってそれらの細部がドキュメンタルな細部としての内実を喪うわけではない。肝心なのはそれをクローズアップする演出的な手管が当の被写体との関係をどう生きようとしているかということでしかない。

 

映画は一定の時間的持続の元に展開する。時間的持続は一言には曰く言い難い体験の総合としての漠然とした印象に結実してこそ内実のある経験とも化す。映画が音声を獲得したことによって映画に於ける沈黙もまた発明されたとする言説もあるが、その「沈黙」の中にはむろん沈黙し続ける時間的持続も含まれていることになる。沈黙し続ける時間的持続が映画の体験としての内実をはらみ得るのも、そこに通常音声が介在していて、その欠如としての沈黙状態が際立ってこそのことだ。それは当たり前と言えばあまりに当たり前のことかも知れないが、それこそがこの映画のラストシーンでこの映画の内実を決定づける条件として機能する。最後の最後に敢えてウソかマコトかの二者択一を迫られた佐村河内氏は、一定の時間的持続の中けっきょく沈黙し続けるしかない。この沈黙状態の一定の時間的持続こそ、この映画が映画としてすくいあげるべき内実の最たるものだったのではないか。それはそのあとになんと具体的に応答したかの是非を越えて、沈黙の「質」それ自体として佐村河内氏からの暗黙の応答になっている。判然足る意図を介さない、しかしそれ故にこそ佐村河内氏のいつわらざる実存が映画を見る者の前につかの間あらわになる瞬間。

 

 

そんな「瞬間」は、もちろん取材期間を通じた制作者と佐村河内氏の具体的関係をかもしだしたその長期的な時間的持続の中にこそ成立する。そしてその「瞬間」はそのまま映画自体の時間的持続の中であれこれの細部に付き合ってきた視聴者にとっても共有し得る「瞬間」になる。そこまで映画によって何げなくしかし意図的にクローズアップされてきたあれこれの細部は、そこでその沈黙の「質」を形成し、つまり映画体験の内実として想起されるものとなる。

 

それにしてもなにもかもが曖昧にまぎれている。難聴者なのか、作曲家なのか、最後まで曖昧にまぎれたまま。劇中で作曲された楽曲も一応それらしいようで、けれどそれらしいだけのような楽曲だし、それをまんまとスタッフロールに当てはめるセンスはこの映画自体の印象をパロディ映画のような感覚に落としこみさえする。その意味で徹底していて、言葉通りに「諧謔」的ではある。

ディレクターズ・カット版で追加されたシーンに、佐村河内氏を擁護する盲目の少女のくだりがある。それもまた切実な細部だ。たとえばそんな人間関係の一面を生きている当たり前の生活者の生活を、世間の世評に無責任に無自覚に便乗するだけの人間の誰に脅かす権利があるのか、とは思う。