映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最近見た映画(その10)

◎『突然炎のごとく』(1962/フランス/フランソワ・トリュフォー

音が、声が、アフレコなのだろうか。少なくとも同録ではない。同録ではないが故に、その音も声も、むしろ映画にサイレント映画的な肌合をかもし出す。人物は唐突にアクションを起こす。あるいは神経症的にケレンな性(さが)を生きる。それを映画の画面に現実化させているのは、そのアフレコと、そして編集なのかも知れず。

音と声のサイレント映画的な心理主義的表象との乖離と、次の瞬間に今の瞬間と隔絶した画面(コマ)を突如挿入されてしまうかも知れない断裂的編集が、人物の唐突なアクションを喚起し、神経症的なケレンを性(さが)とせざるを得ないその像に結実する。

 

◎『クーリンチェ少年殺人事件』(1991/台湾/エドワード・ヤン

明滅。なぜこうも明滅に偏執するのか。段取りとしてまず明かりをつけた方がてっとり早いような場面でも、なぜか人々はすぐには明かりをつけない。やっとつけたとしてもそれは裸電球や懐中電灯の人工的で機械的な光であることがほとんどだ。それはぼんやりと温もりを帯びて灯される暖色的な光でもなく、あくまで機械的なオンとオフのスイッチングで明滅する白色光だ。そしてそれはなぜか大体の場合不安定で、回路か何かの接触具合でかってに点いたり消えたりの明滅を気まぐれに演じる。

明滅はそれゆえか、暴力的な光でもある。点いたり消えたりを繰り返すことは、命の燈明の明滅のごとく人物達を光と闇の狭間に翻弄する。あの殴り込みの場面は、なぜ闇の中に明滅する光の断片の場面でなければならなかったのか。そしてそれは、なぜ機械的な明滅を気まぐれに演じる人工的な光の断片でなければならなかったのか。

ライトが点く、消える、そのことに判然たる意味がない。少なくとも人間的な意味がないその場所で、それでも人間が互いにせめぎあい、いだきあいしている、それを只管示すのがこの映画の一面ではあるのかも知れず。

 

〇『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1942/イタリア/ルキノ・ヴィスコンティ

女は死ぬ。男は生き残る。その逆はありえないのかと言えば、恐らくありえないのかも知れず。物語は生き残る者のものでこそあれ、男の数奇な悲劇の顛末としてこの物語は幕を閉じる。

女が死ぬ、その死んだ女がまさしくたんに死んだ女と化してしまうその端的ぶりが、そのまま当時の倫理観の程度だったのではないか、という感じはしてしまう。人形のようにぶらりだらりと垂れさがるだけの肢体、見開かれたままのまなこ。ついさっきまで不安と希望の狭間でそれでも人間的におののいていたその女が、たんなる死せる人形になってしまう。希望を阻まれての絶望どころかそれをひとっ跳びで暴力的な断絶に陥れてしまう運命論。

その死に様ならぬ死に体の露骨なありようこそ、この映画がその国柄のその時代の映画であることの端的な表徴であるかに思えて衝撃的。

 

〇『イップ・マン 序章』(2008/香港=中国/ウィルソン・イップ)

中華圏拳法映画につきものの、あの音。バッ、バッ、バッという袖や裾が空を切っているらしいあの音が、ここにも健在。しかしその音を実際にまとう資格があるのは、その音をまとうに足るだけのキレのある身体動作を繰り出すことのできる役者達だけ。その意味で、やはりそれは選ばれた者達の映画なのだとは言える。

日本軍は、ほとんど『スター・ウォーズ』の帝国軍並みの悪役を演じさせられているが、日本人として見てしまうと、どうしてもこんな日本兵達にも国に帰れば親や兄弟や妻や子がいるのヨ、とは思う。

 

〇『イップ・マン 葉問』(2010/香港=中国/ウィルソン・イップ)

『序章』よりむしろ見どころは多い。ドラマ自体の構造としては『序章』と同型だが、たとえばイップ・マンが最初に武館を構えるビル屋上の如何にもセットじみていて魅力的な造形なり、魚市場での乱闘シーンのありきたりな小道具を活用したアクションなり、対決場面でテーブルやリングという限定された空間を(文字通りに)舞台にする設定の妙なり、映画的な趣向を的確に意識した意匠が愉しい。

 

〇『ハリケーン』(1937/アメリカ/ジョン・フォード

劇中何度も美しいダイブを披露するジョン・ホール。彼はあちこちの場面でダイブする。その肉体を当たり前に水面にだけでなく、地表の斜面にまで投げ出してダイブする。それはつまり「投げ出す」というアクションなのだろう。「投げ出す」というアクションはそのまま献身と一途の表現ともなって、ジョン・ホール演じる青年のキャラクターそのものとして彼を画面の中に活躍させる。

ここでも『駅馬車』に並んで幾分アルコールに毒された感のあるトーマス・ミッチェルは、その目線がどこかしら夢見がちに宙を漂う。そのように表現される彼は、思うにこの映画に於ける「神」に通じたキャラクターとして描かれている。この映画に於ける「神」は、しかし決して人間的な慈悲の次元に生ぬるい奇跡をもたらすような存在ではない。なんとなれば、もちろんハリケーンの暴威こそがそれを体現する。そこでは善男善女見境なく波風に呑み込まれ、楽園は波風の地獄へと変貌する。その様が恰も世界の終末の到来であるかのごとくに鳴り響き続けた教会の鐘の音は、教会の崩壊によって初めて鳴り止む。

ジョン・フォードの信仰は「神」を人間の精神の基軸として描くだろうが、けれど「神」を人間の絶対的・超越的庇護者として描くことはしない。飽くまで人間がそこにいてこその「神」なのではないか。