映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

人生タクシー(2015/イラン/ジャファル・パナヒ)

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キアロスタミの『10話』を思い出さずにはいられないことになるが、『10話』は言わば奇跡的・天才的に映画になさしめられた映画であって、この映画はそんな奇跡や天才を再現できるなどと不遜で怠惰な発想ははじめからしていない。むしろこれはこれで、何もないところから映画を映画になさしめるべくの戦略が張り巡らされた映画であって、そのぶん謙虚な映画でさえあるのだと言える。

 

映画を映画になさしめるべく、映画の主要な被写体でもある監督は、まず備え付けのキャメラにあらゆる角度へのキャメラワークの行使の自由をあたえる。キャメラワークの行使とはそのまま映画の作為の表徴でこそあり、つまりそれを行使することはこの映画が結局ドキュメンタルなフィクションでしかないことの表明ともなってしまうのだが、それを監督は怖れない。むしろ観客にそれをあけすけにすることで、観客が自らこの嘘の共犯者になるように仕向けるのだと言ってもいい。

ときに固定され、またときに恣意的にキャメラワークを行使させられる画面は、画面に映るものと映らないものとのせめぎあいの中でその緊張感を内部にみなぎらせる。たんに固定されたキャメラを設えるだけの無芸な作品に過ぎなかったのなら、それはたんなる似非ドキュメンタリーにしかならなかった。

 

たとえばある人物が画面の限られた枠組の中に映ることや映らないこと(あるいはその曖昧な狭間にあること)が緊張感をはらみうるのも、それは映画にキャメラワークの自由があたえられているからなのではないか。たんに固定されたキャメラが設えられているだけなら、それは「客観的な記録」という内実を欠いた表出にしかならないが、キャメラワークの自由があたえられていれば、それは意識的な嘘の細部としてサスペンス的な可能性を生きることが出来るようになる。

 

ラストシーンは、キアロスタミ的だったかも知れない。映画から世界に、世界から映画に、現実は架橋される。画面を暗転させる如何にもメッセージ色のつよい“事件”より、むしろなんでもないような夕暮れの街並の断片の光景こそ世界であり映画であるという、現実。