映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

家族の灯り(2012/ポルトガル=フランス/マノエル・ド・オリヴェイラ)

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その映画の中の空間は、書割じみた風にのっぺりと平面的に映し出され、それはファーストショットからして全くそうなのであって、そんな判り易い奥行きを一見欠いたその映画の中の空間は、やはりなぜかしらサイレント期の映画を想起させる。

その映画のほとんどの場面を構成する室内劇からして、やはり画面は平面的。空間は実際にそこに存在するように立体的な諸相を映し出されることもなく、人物と人物はほとんどの画面の中で只管並立並存し、対話の中でカットの切り返しがなされることもほとんどない。そこでは空間は謂わば静態的なモチーフとして画面の中に展開されている。

 

そんな中で曰くありげに空間を縁どる細部として、街路に面した壁面に設置された縦長の窓がある。縦長の窓はその枠組で街路と屋内とを介しているが、決して窓自体が開閉されるようなアクションは映し出されることがなく、やはり静態的なモチーフとしてそこに設置されている。

 

なにもかもが静態的にミニマリスティックにまとめられた映画の中で、しかし最も動態的に映画が活気づくのは、息子が金を奪って家を飛び出していく場面だろうが、そこで動態的に映画が活気づくことは、そこまでの退嬰的な家族同士の結びつきを描く室内劇の静態的なありようとの対比を判然とさせる。

 

判り易い奥行きを一見欠いたその映画の空間は、サイレント期の表現主義的な映画の歪な即物的平面性を想起させる。その超現実的(シュールレアリスティック)とも言える歪さは、しかし何を巡っての歪さなのか。それはあるいは、映画が映画であるための、言い換えれば、映画が映画であることに於いてそのまま現実であろうとするための歪さ、かも知れず。

 

映画は現実のトレースではない、ということ。