映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

冬冬の夏休み(1984/台湾)ホウ・シャオシェン

 

f:id:menmoku:20170612082833j:plain

 

田舎の家屋。田舎の家屋の窓や出入口がことごとく開け放たれてあるのは、これが夏の映画だからなのではなく、むしろ昼日中の風と光の映画だからこそなのではあるまいか。それは同じことのようでいて、しかし夜の場面がほとんど描かれないことに於いて異なっている。唯一の夜の場面では、風も光も息をひそめたように画面から姿を消す。木々や草花とともにそこに実存する者の肌理をざわつかせるような風と光の生命の感覚を、演出家は開け放たれてある窓や出入口を通して存分に画面に活かす。

 列車。列車はその内外の空間をやはりその窓や出入口を通して可視化する装置として、同時にその伸長する形相と運動に於いて自律的に進行する時間を可視化する装置として、それこそ映画的に機能する。列車を介した空間内での出入、あるいは時間差による錯綜を、演出家はしっかり映画の契機として作劇に活かす。

 

少年がはじめて田舎の駅前に足を踏み出す時、画面にまずあらわれるのはその足先ではなく、その操縦するラジコンカーである。何気ないようで、これがつまり「説明」ではなく「描写」なのではないか。その操縦するラジコンカーが、何より少年が都会の子供であることを示し、尚且つそんな立場として少年がそこで抱いている心理的な様相をも示す。そのラジコンカーがのちに少年と田舎の子供達とかかわりあう為の触媒として機能することを見れば、演出家がそのラジコンカーのショットをさりげなく入れたことは、決して何気ないことだったわけではないことも判然とする。

 祖父は、映画上ではほとんどセリフらしいセリフを口にしない。ほとんどの場面に於いて厳めしい表情と姿勢で子供達を威圧や恫喝するのみで、教育的存在者としてふるまう。身振り手振り、あるいは表情の素振りでキャラクターを成立させることは、この祖父の祖父たるゆえんをむしろ映画上で際立たせる。少年と祖父がそれでも親しく言葉を交わしているらしい場面に於いてさえ、聞こえてきてもいいセリフを抑圧することに於いては、その祖父の寡黙な動態ぶりもまた演出であることが判然とする。

 

この映画に頻出する、眠る、寝る、つまりは「横たわる」人物達のイメージは、恐らくそのまま「死」のイメージにつながっている。それがつながっていると言えるのは、冒頭のベッドに横たわる母親から、行方不明になる少年、また強盗に遭う男達、あるいは流産する少女のような、「危機」に瀕する人物達の一連の「横たわる」姿が画面に登場することからも判然とする(肛門の激痛に苦悶する従兄の姿もご愛嬌のバリエーションか)。だからこそ、否応なく劇中唯一の夜の闇とともに眠りに巻きこまれ、そして朝のぼんやりとしたあかるみと共に目覚める子供達の姿も描かれることになる。それはやんわりと描かれる死と再生の謂いなのだということが、イメージをさりげなくしかし確実に変奏しつつ反復する演出に於いてこそ、よく判然とする。

 

ホウ・シャオシェンは確固たる「演出家」だということ。