映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最近見た映画(その08)

〇『キングコング 髑髏島の巨神』(2016/アメリカ/ジョーダン=ボート・ロバーツ)

細かいことを論えば、シーン毎の接続が粗雑。あるいはシーン毎を貫いていくはずのプロットに牽引力がないので、全体として展開が弛緩する。それをキングコングやドヤ顔俳優のどアップで無にしようとする乱暴さはやはり粗雑にしか見えず。しかしそんな粗雑はこの手の映画につきものの粗雑でもあるように思われ、やはり細かいことでしかないのかも知れず。

 

△『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(2016/アメリカ/ケネス・ロナーガン

敢えて現実的なSEを排して実質無音のような抑制的な演出で物語を始める冒頭は悪くないように見える。けっして深くはないが一面に雪の積もったしがない冬の港町の凍てついた風情は映画の物語の基調に即してどことなく慕わしい。

主人公の日常、あるいは人物を素朴にカッティングして見せていく序盤はやはり悪くないが、中盤以降はそれがたんに説明的な平坦なカッティングにしか見えなくなってくる。またところによっては無駄に思える奇妙なカットがある。なんのためにそのカットを入れるのかわからないが、しかし説明的でしかない(つまり蛇足的)カット。

 

〇『残されし大地』(2017/ベルギー/ジル・ローラン)

立入禁止区域のゴーストタウンと化した街並を捉えるトラヴェリングショットの奇妙。廃墟の静穏な虚無がその持続的な時間の中に映し出される。あるいはやはり無人となった草木の中に点在する家の固定ショット。家の窓に明かりはなく、青白い月のあかりだけが無数の鈴虫の音を受けてあたり一面を穏やかに照らし出す。

もしかすれば、これらショットをきりとったこの映画の監督は、その黙示録的とも言える人の姿の排された光景に密かに魅せられてしまったのではないか。その事実の非人間性を告発するよりもまず、そこにあるその光景そのものに否応なく魅せられてしまうことは、ヒューマニズム以前の素朴に映画的な感受性の発露のようには思える。そしてそれは図らずもヒューマニズム以後の光景ともなる。

 

◎『けんかえれじい』(1966/日本/鈴木清順

一見物語的な脈絡を脱臼させるような断続は、決して「美学」的なものではない。映像演出家の生理ではないか。生理であるからこそ、それは不可避的で、映画の中で必然的な肌理として時間の持続の中に機能する。高橋英樹の、よい意味で「心理」の欠落した身体と表情が、天然の役者としての実存を生きる。一度自身で発した声をも一度自身の腹に収めようとする(?)そんな奇妙な仕草さえ映画の動態の中で切実さを帯びる。

障子の表を滑る指先は、そりゃ障子を破らねばならない。破らねばならない。破るからこそ遣る瀬無い。「破る」ことにこそ人物のドラマが凝縮されて、見事物語が映画に(映画が物語に)なり遂せる。

北一輝との遭遇が青年を東京に奔らせる。「北一輝」というなんでもない歴史上の固有名さえが映画的な艶を帯びて響くように、そこに踊る。映画らしい映画とはそういうものかと。

 

〇『はじまりへの旅』(2016/アメリカ/マット・ロス)

父と子の物語。子はここでは“子供達”であり、つまり複数。複数でそして男女が三人ずつで均整された配列を組む。母親の命名により人名を授けられたバスの座席、その配列を序列として目に見える事象とする。父はその運転者として、ミラーを通して子供達とコミュニケーションする。ミラーを通して画面上切り返される父と子供達。その何気ない画面の交換が終盤、形式的な反復を介して、不在によって在を強く示すショットとして映し出される。父が髭をそれば、息子は髪をそる。御互いに御互いの欠落をなであう仕草もまたミラーを通して画面上切り返される。

子供達は確かに“子供達”だが決して匿名的な複数性には埋没せず、それぞれがそれぞれであることを体現する楽器と歌声を奏で合うクライマックスの解放感は、ある家族の、「この親にしてこの子あり」という、幸福な物語的予定調和を説得的に描き出して已む。そういう映画。画面の交換と演出の段取がドラマを生み、物語を成立させる、ちゃんとした「映画」。

 

〇『フレンチ・ラン』(2016/イギリス=フランス=アメリカ/ジェームズ・ワトキンス)

ほぼ遺漏ない。定型な枠組の定型な物語がアクション活劇として卒なく展開される。

クライマックスの国立銀行のシーンは、シナリオ上で群衆をモチーフとしてもちいつつ演出的には密室的な場面設定に逃避したようには見えるが、仮面などの細部がアイデアとしてちゃんと活かされて展開として機能してもいる。

三カ国にわたる多国籍映画。映画の国籍は映画自体の展開や画面の肌理にもやはりどことなく反映されるものだとは感じる。