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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最近見た映画(その07)

△『ゆずの葉ゆれて』(2016/日本/神園浩司)

児童文学の映画化らしい。見るべきものがない。「ゆずの葉ゆれて」という題名なのに、肝心のゆずの葉を風にゆらすことすらしない。ドローン撮影によるものだろう空撮があるが安易に用いたものに見える。

 

〇『夜は短し歩けよ乙女』(2016/日本/湯浅政明

平面的なパースの歪な絵柄で描くには、青年の妄想を基にした御話は格好の題材ではあるのかも知れず。しかしこれならば結局は、分節化された言語的な演出と作劇の意図が大きな権能をふるうことになって、その結果、見る者はモノローグの饒舌を愉しむことしか出来なくなるように思える。肉体即ち実存、あるいはその痕跡としての作画のリアリズムが介在しない以上、それはどこまでもモノローグの交錯でしかなく、ダイアローグにならない。

 

〇『カフェ・ソサエティ』(2016/アメリカ/ウディ・アレン

ふと停電して、束の間蝋燭の火で照らされた女優の貌は、まるでヨーロッパ映画のそれ(さすが?)。停電という劇中のアクシデントは、蝋燭の光でその貌を撮るための演出だったのだろう。

ありていに言えばどこかで見たことのある、ありがちな御話の映画にどう決着をつけるのかと思えば、主役の男女二人の遠い距離を介した、しかし映画の中ではカットバックで同期する表情の交錯で、呆気なくしかしきっちり幕を下して見せた。それできっちり幕を下して見せられる表情が、そこにしっかり写し撮られていた。

 

〇『ムーンライト』(2016/アメリカ/バリー・ジェンキンス

肩越し、クローズアップ等の人物の主観的なキャメラ視点が頻出。それによる主観への同調にあまり狭隘な閉塞感を覚えないのは、何より人物が積極的な動態的な演技をほとんど見せないからではないか。フィックスで捉えることの少ないキャメラはこの映画では主題的に必然だったのかも知れず。そのキャメラワークの流動感がこの映画の触感的柔和に寄与するところは大きい。

センシティブな黒人男性というイメージは、あまりハリウッドのメジャーな映画には見受けられないものではないか。主人公の黒人男性の成年期を一見してマッチョな俳優が演じているのは、作劇的な要請とともに、そんな黒人男性を巡るイメージの社会的齟齬の感覚を図象的に表現する為でもあったかも知れない。

 

〇『ラビング ~愛という名前のふたり〜』(2016/アメリカ/ジェフ・ニコルズ

ジョエル・エドガートン演じるリチャードは飽くまでも普通の男。決して大胆でも勇敢でもないが、しかし家庭を守ることに懸けては臆病でも卑屈でもない。仕事には寡黙に勤勉に取り組む。その日常の感触を、仕事ぶりの決まったショットの反復や、子供達の嬌声のオフサウンドなどで演出することをきっちりやる映画。

最高裁への上告の報告に弁護士達が家に来る場面。最初に雪景色の中を外に薪を取りに家を出るリチャードの姿から始めて、家に戻るとそこに弁護士達が居ることがはじめて判る。何気ないが、これもまた日々の生活こそを第一義にリチャードが動いていることの段取的演出になる。そんな描写あってこそ、「俺は妻を愛している」という素朴な真情の吐露が、単純なセリフとして以上に、のちの画面展開の中で響くことにもなる。(だからこそそこではセリフを吐露するリチャードの横顔だけでその場面を終わらせるべきだったかも知れない。)

 

◎『ブロンド少女は過激に美しく』(2009/ポルトガル=フランス=スペイン/マノエル・ド・オリヴェイラ

フィックスで撮る、ということを殊更に意識させられる画面。「ブロンド少女」の登場する窓辺のきりとられかたの律義なまでの四角形ぶり。しかしそのようにきりとられることで「ブロンド少女」は文字通りに“飾り窓の女”ででもあるかのようにそこに印象づけられることになる。そこでは何より「窓」なのだ。視界を四角形にきりとる窓という縁取が、まるで少女と青年の間を映画的に媒介するかのような機能を果たす。窓があることで、二人は恋に落ちたと言ってもいい。画面の中に画面を設置したような窓という縁取は、やはり「映画」という自覚を喚起させずにはおかない。

一瞬で変換する夜と昼の街並の光景のショットなど、本来なら一見して説明的に見える筈の画面の提示がむしろ描写的な呆気羅漢の境地をにじませる。不思議。

リカルド・トレパはその愛嬌ある表情がどこまでも憎めない。ブロンド少女を見初めた瞬間の「見初めた」表情の見事な愛くるしさ。その表情自体が絶妙なユーモアと化す。

原作由来なのだろう御話の簡潔は、しかし原作由来から色気も出さず簡潔に徹する限り、やはり呆気羅漢の境地をにじませる。