映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最近見た映画(その06)

◎『おとぎ話みたい』(2013/日本/山戸結希)

一本の映画自体がひとつのからだなのだとしたら、この映画はそのからだの爪先の先までめいっぱいにとぎ澄まして踊りを踊りつらぬいているようなもの、かも知れず。ミュージカル映画ミュージカル映画足り得ること、即ち人が不意に踊り出す瞬間が正に踊り出す瞬間足り得ていることが映画の奇跡なのだとすれば、この映画はそんな奇跡にこそ恵まれている。本来なら成立し得ない瞬間が問答無用に映画の中の現実として成立してしまうこと。

 

〇『5つ数えれば君の夢』(2014/日本/山戸結希)

通奏低音の如くに静かに反復され続けるリズムとメロディがぜひとも必要なのは、この映画自体がその中で小刻みに踊り続けることを欲しているからなのだと思える。少女達の錯綜するモノローグはやはりモノローグでしかないとしても、映画自体がひとつのからだとして孤独な独壇場を演じ通す映画なのだと思えばそれも欠点とはならず。その中で人物が複数化し物語も複線化することで多層的に曲想を重奏する一篇の譜面のように映画は進む。

しかしここには“女の子”しかいない。男達は皆、“女の子”のモノローグの鏡でしかない。人物達の肉体そのもの=実存は複数化されていない。互いに触れ合うことの当たり前のエロスが形象化されていない。

 

〇『マリアンヌ』(2016/アメリカ/ロバート・ゼメキス

たとえば、砂塵の中の車、その内外の隔絶と透過の描写。あるいは、墜落する爆撃機、その緩慢だが確実な接近の軌跡の描写、など。

CGを映像演出の中で効果的に用いることが出来るのは、それを用いることによる空間表現の可能と不可能をよくわきまえているからなのではないか。空間があり事物がその中で持続的に運動することへの自覚的な視点。イメージではなくあくまでリアルに従属することで、映画の(リアリティならぬ)リアリズムも担保される。

 

〇『息の跡』(2015/日本/小森はるか

この記録映画でほぼただ一人の被写体となる佐藤貞一氏は外語で震災の物語をつづる。かのひとは、それをたんに「話す」ことではなく「語る」ことをこそ欲するがゆえに、そのフォーマットとして外語による記述を選択することになる。「話す」ことは共時的なコミュニケーションだが「語る」ことは通時的なコミュニケーションにつうじ、したがってかのひとは、「話す」ことで消費(忘却)されていく日本語という母語ではなく外語で物語をつづるのであるし、だからそこに歴史学的な記述が盛り込まれていくのも理の当然ということになる。となれば、かのひとは、かつて宮沢賢治が万国共通語としてのエスペラント語を学習したように、外語による記憶の記録にとり組んだことになるのかも知れず。

しかしこの記録映画の賜物たる佐藤貞一氏のキャラクターは、何よりその朗々たるバリトンボイスにこそ結実されているように感じられる。その朗々たるバリトンボイスが、自著を読みあげるところのその声の独特の抑揚は、文章を朗読することの歓びに充ちて感動的に響く。母語という主体ではなく外語という客体がそこにつづられてあることは、「語る」こと(主体)を「聞く」こと(客体)の前に顕在化させることにもなる。運動としての「物語」とは、語ることであると同時に聞くことでもあるということ。

 

△『傷だらけの悪魔』(2017/日本/山岸聖太)

プロットからして、プロットの為のプロットという案配で、キャラクター達の造形もそれに随順する為のものにしかなっていないように見える。例によって例の如くにSNSは人間の陰湿な裏面性発露の温床として描かれるが、それもSNS的なメディア性を前提としたプロットの中で描かれるので、皮相な意味で予定調和な展開しか帰結し得ないように見える。プロットを支える人間観がそのままプロットを限界化してしまう。役者達のセリフもそれ故自分自身のセリフを信じ切れていないもののように聞こえて、むしろイレギュラーなつぶやきなどにこそ余程素朴な吐露が聞こえるような気がする。

皮相な意味でMTV的な映像編集は端的にかったるい。

 

〇『ハードコア』(2015/アメリカ=ロシア/イリヤ・ナイシュラー)

狭隘な空間から一挙に広大な空間へ場面を展開して見せる。主観視点に徹底させているからこその演出的アイデアかと思える。アトラクション的に視点を動転させ場面を展開させ続けることで、主観視点であることの本質的な運動性の滞留(視点が動かなければ場面が動かないこと)を意識させない。神経症的とも言えるが、場面の展開に費やされるアクションのアイデアは豊富。

「寡黙なチャップリン」(こんな自己言及あること自体からしてこの映画は確信犯)は七転八倒しながら単純な規範でとにかく行動し続ける。主観視点という映画のスタイルがそのプロットの基本を規定し、その限界を可能性に変換したという意味で稀有。

念動力のボスキャラは問答無用のそのアクションのキレで説得力を体現し、言葉の通じない異国としてのロシアをゲームステージにすることで余計余分な演出を省略。ぬかりない。

 

〇『バンコクナイツ』(2016/タイ=フランス=ラオス富田克也

モノラルぽく中央にあつめられたという音響の中で、音が、声が、あるいは歌曲が楽曲が、音響のリアリティ志向のパースペクティブから解き放たれて、水面に浮くウタカタのように、画面から奇妙に浮く。画面と音声の拮抗が内部で蠢動し続けることで、映画が息をし続ける。

ロードムービー」というのが流れゆく車窓の映画のことなのだとすれば、この映画も確かに「ロードムービー」ではある。なんとなれば映画の画面という「車窓」の中に、街が、村が、森が、河が広がり、流れゆくのであるから。(その運動の媒体としての、船、バイクタクシー、バス。)たゆたう水面の表情は、端的にそこが楽園の縁であることを示してやまない。そして、髪や布をなびかせる過ゆく風。

3時間という長尺はいわゆる「物語の経済性」なんていう観点からすれば破綻そのものかも知れないが、この映画の場合はその時間の独特の“たわみ”こそがこの映画自体の“質”になっているようにも思われる。(東南アジアの『甘い生活』。)

アジアンスター的風貌の富田克也氏は、被写体としてグッド。