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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

アンジェリカの微笑み(2010/スペイン=フランス=ブラジル=ポルトガル)マノエル・ド・オリヴェイラ

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大河の河畔、夜半の街並。その景観のロングショット。それだけでもはや映画の画面。雨降り頻る石畳の路上をヘッドライトを輝かせる車が滑るように走りこんでくる。それもやはり映画の画面。何よりも音。そこで雨が雨として映画の画面を際立たせるのは、まぎれもなくそのシトシトと石畳をうちつづけるところの雨音故だ。雨音は青年を屋敷に送り届ける車の中にあってもガラスをうちつづける雨音としてひそかにその音を響かせて、この映画の世界の果てない慕わしさを暗黙の裡に印象づける。

 

縁取られること。それは世界から切り離されることだ。世界から切り離されるとは、つまりこの世のものではなくなるということであって、だから事物を縁取り世界から切り離すところの写真のファインダーの向こう側から見込まれてしまった青年は、敢え無くこの世のものでなくなることになる。青年は生活する空間としてのあらゆるものに縁取られる。窓、扉、鏡。しかし何より、フィックスで青年の生活する空間を映し出すこの映画の画面自体が、青年の存在を縁取るところの最たるものではある。窓や扉や鏡が世界の縁として青年の存在を脅かしうるのも、何より映画の画面がそれらの四角的で平面的な世界の縁取りと近似形をなしているからではないか。いったん世界の縁が青年をとり囲んでしまえば、あとは青年がその運命を逃れるすべはない。青年は夢と現の狭間で世界の縁の行き来を繰り返した果てに、昇天する。

 

音。この映画の音は、しかし映画自体が夢と現とを行き来する物語の媒体としてこそ機能するが為に、やはり世界を縁取るものとして青年をとり囲んでいるかのごとく響く。世界を縁取るものとしてとは、つまり画面の内部と外部、その狭間をこそ意識させるということであり、音が響くことで内部の空間に外部の介在を意識させる機能を発揮するということ。通りを走るトラックの轟音はその最たるものだが、だからこそ終幕、閉塞される窓の扉とともに映画は無音の世界に還ることにもなる。終始開かれ続けていた窓は、やはり異界との縁だったということ。

 

死せる女との空中遊泳。古典的なエフェクトとしての合成処理だろうこの画面の独特の浮遊感は、それ自体がやはり映画の自己批評になる。それはありていなリアリティ志向にからめとられることなく、映画は映画でしかないがだからこそ現前する夢想そのものとして現実と化すということをそこに示す。その空中遊泳の画面の如何にも古典的な独特の浮遊感あってこそ、たとえば完全な俯瞰としての高高度からの下界の景観ショットたった一つだけで、その空中遊泳が世界(生死)の縁に漂う危い戯れであることが直観できてしまう。

 

静物画的なフィックスの画面がつづく映画の中で、最も動態的なアクションが示されるのは、青年が死に至る疾走を疾走する場面ではある。疾走を疾走する青年に、しかし何も理由はない。青年自身の内心にはあったのかも知れないが、しかし映画を見る者にそれが了解される様な仕方ではなにも描かれない。それは映画の中では全く以て予定調和に、死に至るための疾走でこそあり、だからそれは言い換えれば疾走の為の疾走でこそある。そこで示されるのは、なぜかしら疾走の契機となった小鳥の死は青年の死でこそあって、即ち青年の生は(籠の中の)小鳥の生であったという寓意なのかも知れない。