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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最近見た映画(その04)

*「ロマンポルノ・リブート」5本*

 

ジムノペディに乱れる』(2016/日本/行定勲

なんでジムノペディなのか。なんでこの男なのか。なんでだいたいロマンポルノなのか。わからない。相変わらず審美的に耽美的なソフトフォーカス。ロマンポルノとして映画として、必要なのは化粧(粉飾)でなく素肌(露呈)ではないのか。そこに生きていることのかけがえのなさ。

 

『風に濡れた女』(2016/日本/塩田明彦

艶がない。運動会よろしく人間同士が裸体でくんずほぐれつし合っても、それで映画が有体な現実感を突き抜けて映画になってくれるわけでもない。ちょっとした目線や仕草が可笑しさを生むのは判るし、実際それによる喜劇性をこそこころざしていたのならこれはこれでいいのかも知れないが、本来「濡場」である筈のくんずほぐれつに艶がないのはやはり欠点であるまいか。

空っ風に素肌をさらすような実存の震えなくしてそんな「艶」など生まれようもなく、裸体はたんに裸体としてそこに提示されるだけになってしまう。

 

『牝猫たち』(2016/日本/白石和彌

女達と男達のからみあいが艶めく。これこそ、だと信じる。女達の素肌が人生の影、物語の艶を帯びて、巷間にのたうつことの切なさをにじませる。一見すればだらしなくみだれているようでも、それでも不意に示される一片の情理の発露が、実存する人間としての艶となってその素顔の肌理となる。

ふと風が吹く。なぜかしらその場面に風が吹き、木の葉を揺らすことの映画的なざわめきが、確かに相応に映画を映画にする。物語が、人生が映画の中で人物の実存として生きられているからこそ、そんな瞬間もまた可能になる。

 

『アンチポルノ』(2016/日本/園子温

画面の中で演じられているものが、すぐさま舞台劇的な閉塞感に翻訳されてしまう。劇中劇的なメタフィクショナルな構造で自覚を見せ掛けてもアリバイにしか感じられない。

映画が風俗として巷間に居場所を喪った時代の、如何にもそれらしい密室性(密室的性風俗)。出来のいいフィギュアみたいな冨手麻妙の肢体(それはそれでいいんだけど)。

 

『ホワイトリリー』(2016/日本/中田秀夫

ドラマが上滑りするように見える。恐らくは、同性愛的な性戯を演じる女優と女優が映画の中で拮抗する人物同士として捉えられていないから。象徴的なのは準ラストシーンで、落涙して「先生」の元を去る飛鳥凛のクローズアップに対して、「先生」である山口香緒里への切り返しのクローズアップがないこと。この二者のそれぞれをそれぞれに描くことをしなければ、ドラマは(文字通りに)ひとりよがりな女の独白に似たものにしかならない。人と人とがからみあうのでなければ、なんの「濡場」か。

 

***

 

いわゆる単なるポルノグラフィならぬ「ロマンポルノ」に必要なのは、「触れ合うこと」をこそ描くことなのじゃないか。役者(とくに女優)が素肌をさらすことの意味がかわってくれば、それをめぐるところの画面の中での肌理自体も相関的にかわってくるのだろうが、それでもエロスがエロス足り得るのは、それが「触れ合うこと」の表象であるからなのじゃないか。それが、素肌が最高の衣装となるように裸を撮る、ということになるのじゃないか。

たんに服を脱げば裸になるのではない、ということ。服を脱ぐことが何を脱ぐことになるのか、ということかも知れない。