映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

SHARING(2014/日本)篠崎誠

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山田キヌヲという主演女優の寝ているのか覚めているのかわからないような表情が第一印象。寝ているのか覚めているのかわからないのは、しかし映画自体の筋書がそうさせているのやも知れず。寝ては覚め、覚めては寝て、どこまでが夢だか現だかも判然とせぬなかで映画の筋書はつづられる。だいたい映画なんてそんなもの(夢現半ばのもの)だろう、とは確かに言えるが、映画がそんなものでありうるのは、映画が現実に似て非なる(似非)現実であるからで、その似て非なることのバランスが現実との見え難い相関を失すれば、映画はたんなる絵空事と認識されることになる。

 

悪夢を見ることを繰り返すこの映画は、この映画自体が悪夢であることの示唆を含んで終始する。寝ては覚め、覚めては寝て、しまいには半ば夢を見る為に寝るかのように寝ることさえする主人公は、いったい映画の中で何をしたのかと言えば何もしていない。映画の舞台はほとんどが大学の構内に限られ、その中で同じ様な追走場面が繰り返し演じられ、若者たちは直立し孤立した影をたたえてうろつきまわり、たたずむ。

 

タイトル″SHARING″の意味は一般に「共有」ということになるのだろうが、またそれは言い換えれば「分有」でもある。となれば、それは同じものが分かたれることの意味をもはらみうることになる。であるからか、この映画には同じものが分かたれる「分身」のイメージも見出されることになる。「分身」のイメージは無論それそのままの“分身”や、あるいは双子の人物として登場しもするが、それを言うなら、だいたい同じ様な場面が反復して展開されること自体、時間的な「分身」のバリエーションとも言えるし、それは更には、可能世界意味論的な可能態と現実態のバリエーションとも言える。

 

起こったこと(起こらなかったこと)と起こりえること。すべての可能性を現実的に含蓄し得るのは、私らの日常の生活の中に於いてはただ「夢」だけかも知れず、だからこの映画がそんな夢のモチーフを反復的に展開するのは、その意味で正しい。しかし、そのためにこの映画は、切迫した現実からは遠ざかることしかできなくなったとも言える。「切迫した現実」という認識の型自体が虚構の紋切型でしかないのかも知れぬが、「夢」の不安におののくことしか描かないこの映画は、「夢」の内部に自足したまま終わる。

 

この映画には111分版と99分版があるとのことだが、一部要素を削ることでそれでも双方の映画が成立してしまうという事実自体が、この映画が決定的な「物語」の枠組を有していないことを証していやしないか。双方が映画として独立して成立してしまうことは、映画の示す帰結それ自体の希薄を証だてているのではないか。たとえば映画の最後のワンシーンが決定的な意味をもつのは、映画=物語の全体がそのワンシーンの決定性を裏打してこそであって、それを欠いた最後のワンシーンは、それがどれだけ衝撃的でも、所詮そのシーンだけの衝撃でしかない。現実はそんなものではない、というつまらない現実的な一言に、その衝撃は拮抗できない。

 

見たそのままの映画的な印象として感じるのは、被写体がキャメラとの緊張関係を生きていないように見えるゆるさ、だろうか。それは役者が口にするセリフの抑揚の深浅にまで波及するものだと思える。画面の中で被写体とキャメラの緊張関係が生きられなければ、たんに話している人物をただ撮影しているだけに見えてしまう。とくにキャメラ目線の女性陣の執拗さに比べて男性陣の希薄さが悪い意味で際立つ。