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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最近見た映画(その03)

映画覚書

△『島々清しゃ』(2016/日本/新藤風

子供達や素人の老人が主要なキャストで登場するが、そうすると脚本の脆弱さがもろに出てしまう。絞りどころ、落としどころが曖昧なままの構成で印象も曖昧に終わる。人物の語るセリフが地に足着かない(体に具わっていない)ように響いて腑に落ちない。
「プロフィール(横顔)」を切りとる様な随所の女優に向けられたクローズアップは、それ自体としては悪くないように見える。しかしそのイメージが全体の御話と通い合わないので活かされない。それこそ「ちんだみ(調弦)」が良くない。
ガタイのよい安藤サクラが纏うと存在感が出る夏仕様のシンプルな服飾。

 

〇『雨にゆれる女』(2016/日本/半野喜弘

「雨にゆれる」とくれば、それこそ「雨」が印象的に画面に刻印されてくるのかと思いきや、それほどでもない。薄暗い廃屋じみた家屋に鈍く差し込む白昼の光も、画面の艶を構成するとまでは言い難い。風も窓外で吹いていたようには思うが、吹いていただけだったようにも思う。ただそれでも、青木崇高大野いとのふたりは確かに艶ぽく見え(敢えて言えばふたりとも肉感的なのがよろしく、またものを食べるという仕草が何気に大事にされているのもよろしく)、故にそのふたりの物語にも見入らせるものはあった。大野いとの叫びに真情を感じられるだけの内実はあった。

 

〇『ザ・コンサルタント』(2016/アメリカ/ギャビン・オコナー)

いわゆる「高機能自閉症」という障害を負うものらしい主人公の物語になるが、その障害がユニークな個性として具体的な作劇の細部の中に活かされる。物事の細部に几帳面すぎるほど几帳面なその固執ぶりは映画的な演出と相性がよいのかも知れず、映画の細部の描写にタイトな印象をもたらすことになる。

敵方の黒幕との決着のつけかた、その殺害の躊躇のなさは、アメリカ的なモラルの端的な発露なのかも知れず。そのモラルとは社会的公益性うんぬんよりも家族の絆こそ第一という(家族を自分の為に殺す様な男にはなんの躊躇もなく引導を渡すという)モラルであり、またそれが障害を負う者の個性の中でよくも悪しくも純化されたものとして結晶しているという描写になる。

いわゆる「高機能自閉症」という障害の個性が、プロフェッショナルな規範意識に近似する。似て非なる部分があるとせば、それはセンチメンタルな独善性があるかないかかも知れず。よくも悪しくも、子供のままに大人を生きている主人公。

 

△『サバイバルファミリー』(2016/日本/矢口史靖

ことごとくおとなしく想定内に収まる展開。震災の記憶を前提にした設定ではあろうが、根本的に問題として向き合う意識のあるわけでもなく、せいぜいが長いバカンス旅行程度の含蓄しかもちえない非日常。

災厄の原因がなんとなく示唆される。映画としては示唆されなくても構わなかっただろうが、示唆されればされるで、決して全然あり得ない事象でもないということが判る。日常がいかに脆弱かという簡単な教示にはなる。

 

△『皆さま、ごきげんよう』(2015/フランス=ジョージア/オタール・イオセリアーニ

あり得ないような強風が画面を席巻しても、そこに映画の神はなんらの恩寵ももたらさない。それよりも、たとえば銃撃されて階段に倒れた男の背広のすそが全くの偶然であろう微風によってわずかにはためいて見えたりする方が、まだしも映画の神の恩寵を感じないではない。いくら映画的な演出を意図しようとも、それが本当に「映画」になるかどうかは意図の範疇を超えている。残酷なことにつまらない。

つまらないと言えば、たとえば警察署長の役者の風貌のつまらなさ。全然つまらない。

妙な瞬間の妙な按配なジャンプカットがいくつか見られる。

 

〇『あなたを待っています』(2016/日本/いまおかしんじ

「あなたを待っています」のカードをさげた山本ロザが、登場以降、聾唖者のようにほぼ喋らない。喋らないである決まった身振り手振りだけで主人公や他の人間とやりとりする。コミュニケーションにならないようでなんとかなっているらしいそのやりとりにそれなりに見ているこちらもなれてきた終盤、山本ロザはやはり唐突に肉声を発する。

そこまでほとんど「ひとりサイレント」だった人物が、映画内で肉声を発するその瞬間だけは、「映画的」と言いたくなるような戦慄をかすかに覚えた。いわば、たんに役者が言葉を語り始めるだけのことが、映画(史)の中でいかに決定的なことだったか。