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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

沈黙 ーサイレンスー(2016/アメリカ)マーティン・スコセッシ

洋画(アメリカ映画)

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映画には何があるか。何もない。映画は現実の事物と向き合うところからしか生まれない。ということは、現実の事物と向き合うことなくして映画そのものにはじつは何もない。なんらの被写体もなき無の時空に映画は実存しえない。映画は全くの「闇」を表象できない。

映画にはあれこれの現実の事物の形が映る。逆に言えば、形のないものは映らない。然しそれを言うなら、映画それ自体にはそれこそ形がない。それ自体には形がない映画が形あるものの形を映すことではじめて成立する。映画の存在論を語ればそうなる。

映画の視座は、だからすなわち、遍在しつつ偏在する神の視座に準えることが出来る。極大から極小への、遍在から偏在への可能性の中に担保される映画の視座は、しかし完全な遍在にも偏在にもなり切ることが出来ないことに於いて現世的で、現世的であるがゆえにあの世からこの世にコミットメントする神の視座にやはり準えることが出来る。

 

棺桶の中の遺体が掌中に抱くその「形」は、ただ映画=神だけが見届ける。映画=神は、ただ他者としてその「形」を見届ける。もはや遺体となった本人の意思さえも問題にしえないところで(それは日本人の妻が密かに忍ばせたのかも知れず)、ただ「形」だけがそこに遺る。尤もらしい観念は何も遺らない、何も。しかしただ「形」だけはそこに遺る。なけなしであるがゆえにかけがえのない、そしてあられもなき「形」、それが映画でなくてなんなのか(思い出すのは『ラストエンペラー』の蟋蟀)。

「ただの形だよ、形…」という悪魔のささやきは、そのじつそのまま神のささやきだが、そこにはもはや、その全体を止揚する神の意志を論うことさえもできない、ただの現実があるだけだ。ただの現実は、なけなしであるがゆえにかけがえのない、あられもなき「形」としてだけ生き続けた、ということ。

 

(本当の苦悩は、苦悩自体が救済になる。問いが真摯に問い詰められれば、問い自体が答えになる。それはそれを生きたことのある人間にしか分からない。)

 

「その後」を示したエピローグは、だから作劇上では必然になる。“転向”後の、つまりは世界の表裏が反転した後にも、人生は続き、世界自体も続く。のちの隠れキリシタン達の信仰がローマカトリックから異端認定されてしまう歴史的事実にも、それは暗に対応しているのかも知れない。つまり、それを信じた(「信仰に燃えていた」)人々の魂は、いったいどこにいったのかということ。

 

浅野忠信イッセー尾形の悪魔的な存在感が光る。浅野忠信は何をやらせても浅野忠信でつねに映画の中で攪乱的な存在。イッセー尾形は形態先行型の「演技」でいやらしさに転びかねない虚構的なもっともらしさを体現。この二人が「悪」の魅力で映画を支えていた。