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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

革命前夜(1964/イタリア)ベルナルド・ベルトルッチ

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貌。少女的なコケティッシュを垣間見せる、けれども確実に齢の陰が刻まれつつある、その貌の映画。だからほとんどその貌にだけ画面は注視しつづけて映画は終わる。その貌があらわにするあの表情この表情は如何にも媚態だが、しかし自らを投げかけるべき確たる対象をもたぬ媚態として、映画のキャメラの前にだけ露わになり、そしてきえていく。


映画は自らを切り刻んでみせる。現在という時を何度でも味わい尽くせる特権的な場として数瞬のはざまに反復してみせる。若者は言う。自分には現在がすでにして過去の陰影を宿していると。しかしそんな認識自体が、現在を特権的な現実として生きている証でしかないことを若者は知らない。


若さと老いとは、同じ一つのものの表裏でしかない。若さの面が傾けば、老いの面も傾く。いつしかそれが裏返れば、若さは若さを意識しないように老いは老いを意識しなくなる。若さが若さを(老いが老いを)意識しないとは現在を現在として意識しないということで、つまり現在をほかの何者かととりちがえることが出来るということにほかならぬ。現在が現在であり過去が過去で未来が未来でしかないことを本当に意識できるのは、いつも若さから老いへの推移の過程にあるものだけなのだ。特権的に現在を現実として生きている若者には、それが分からない。


トラヴェリングで画面はゆるやかに滑走する。音声と映像とが微妙に同期せぬまま画面はゆるやかに滑走する。自転車を操る若者、街路や広場を行くひとびと、オペラ座を歩く女の後姿。そして現在という時が特権的な場として数瞬のはざまに反復される。自分達の実存の場としての街、その空間をとらまえると同時に、自分達の実存の時としての今、その時間をも特権的に贅沢にとらまえるその画面。


そこでは老いが若さを駆逐するのか、あるいは若さが老いを駆逐するのか。しかし若さと老いとは同じ一つのものの表裏でしかなく、だから若者と女も一つのもので、一つのものであるがゆえに結ばれることもない。
ひとびとの群の中を見送られるだけの若者の肩と、少年にしきりに口づけて涙を落とす女、その貌。そうして映画は終わる。


あるいはこの映画のアドリアーナ・アスティはアンナ・カリーナなのかも知れない。『裁かるるジャンヌ』を見て涙するところの。
言葉が肉声として聴きとられるのであれば、読みあげられる書物の言葉も生きられた言葉そのものになる筈ではある。