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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

この世界の片隅に(2016/日本)片渕須直

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壁にもたれたヒロインが首を傾げたショットから、画面がぐらりと傾いで水色の空へとゆらめいていくさまを、どう表現したらいいのか。漫画で表現すれば、四角い紙面にコマを割ってそれにそった読者の視点の移動で疑似的に同様の効果を産み出そうとするのかも知れないが、アニメーションにせよ実写にせよ、画面のそんな言語道断的な動揺は、けっきょくそれ自体を言葉で言い表すことは出来ない。

爆撃機が飛来する中を白鷺が目前で滞空する、その画面、その白鷺の浮遊感を、やはりどう表現したらいいのか。言葉で表現すれば、「滑るように」とか、「泳ぐように」とか、たとえばそんな文言で比喩的に形象するのかも知れないが、アニメーションにせよ実写にせよ、イメージのそんな言語道断的な蠢動は、けっきょくそれ自体を言葉で言い表すことは出来ない。

 

水色の空にパッ、パッ、パッ、と華が開くように弾幕の黒煙が点描される。それは実在の光景に模されたところの、しかしまさに人によって描かれたイメージそのものでもある。それを絵にしたいとヒロインが瞬間的に衝動するそのイメージは、しかしまさに描かれた絵そのものでもある。絵の中の人物が、絵を描く主体として登場することで、絵のイメージはメタ化する。メタ化することで描かれた絵はたんなる絵である以上にリアルなイメージそのものとして、むしろ現実化する。

 

アニメーションにせよ実写にせよ、その中のイメージはさまざまな様態に於いて“動く”ものとしてそこに実存しようとする。“動く”ことは、ものにものである以上の「役割」をあたえる。「役割」とは現実の中に於ける条理的な機能のことであって、即ち“動く”ことに於いてイメージは条理的な総合、つまり「物語」に参与し始めることになる。そしてものは「物語」に参与することで、逆接的に総合の中に於ける部分としての自身を生き始めることにもなる。

当たり前のことかも知れない。しかし絵が画面として動き出すとき、そこから何かが始まることの原初的な運動の感覚が、このアニメーション映画をも支えている。それはヒロインの鉛筆を持ち絵を描き出す動作や、包丁をさらりとまな板の上を滑らせる仕草や、あるいは焼夷弾を見つめてみるみる双眸を充たしていくあふれる涙に宿っている。(であればこそ、タンポポは風に揺れていてほしかったようには思うが。)

 

白色のモチーフが頻出する。白鷲、白兎(白波)、白米、白雲、あるいは白い紙、白い光(原爆の閃光)、etc…。しかし、大体「白色」とはなんなのか。それは、色の欠如ではないのか。白色自体も色ではあるが、しかしそれはどんな色をも重ねることのできる色であって、どんな色にも染まることのできる色でもある。それは、原爆の閃光でさえ白色としてつよく印象づけられるように、本来的に何物でもない色であると同時に、また何物でもありうる色でもある。善でも悪でも、正でも邪でもない(ある)。それそのものとして、遍在しながら偏在すること。

 

それは「戦時下」の物語だ。「戦時下」を日常として生きざるを得なかった人々の物語だ。朴訥素朴、呆然たるヒロインが、いつしか自分自身の人生に目覚めざるを得なかった「戦時下」の物語。焼夷弾がそれまでの皆の生活の場所を焼き払おうという、そのさまを目撃して猛然と消火にかかる瞬間こそ、ヒロインが自分自身の意志で生き始めた瞬間かも知れないが、それは「戦時下」が他者との共生につよくヒロインを結びつけたからで、猛然として自分達を圧し潰そうとする暴力に抵抗する意志がめばえる(めざめる)のは、いわば必然だ。だから玉音放送を聞かされてやはり猛然と憤激するのも然るべきで、それは亡き子を想い出す(物陰での)義姉の号泣と対応している。

 

瞬間暗転する画面。義姉から家に帰るように言われたヒロイン、その潜在的な心象を表現するかのような突如たる断絶としての黒画面が挿入される。黒画面は、しかしそののち姪っ子の死をかんがみるヒロインの無意識の場面でも背景の暗幕として反復される。姪っ子の死は、ヒロインに決定的に、黒画面に退行することを許さない心傷となって刻まれる。姪っ子と同時に絵を描く右手を喪ったことは、だから象徴的になる。失われたものが、決定的な共生への楔になる。

 

「8月15日」以降も、物語はつづく。それは何も特権的な日ではない。それが特権的なものとなるような歴史観をこの物語はつづらない。終わりでもなく始まりでもなく、特権的な瞬間に集約されるのでもない、日常としての人々の歴史の物語。