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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最近見た映画(その02)

△『暴力教室』(1976/日本/岡本明久)

松田優作主演作。時代劇から任侠劇へと至る定型を学園劇に移植。なのでラストは討ち入り、殴り込み。主演なのだろう松田優作が三白眼をぎろつかせて凄みをきかせる演技はブルース・リー由来なのか。ほとんど冗談みたいな熱演だが、冗談が本気に見える域にまで達しているので、納得させられてしまう。

 

〇『溺れるナイフ』(2016/日本/山戸結希)

ショットとショットがかみ合わない、つながらないことが、逆にそのさなかに描かれる二人を運命的につなぎ合わせてしまう、という現象が起こりうるのはなぜなのか。本来つながっていないものが暴力的につなぎ合わされる。その暴力的な操作が、しかし操作的な意図を超えて対象と対象をつなぎ合わせてしまう。破綻の際に映画の構造が差し出されて、それでもしかしありうべき映画に帰着させられる。それが本当に成立しているか否かは、結局現実の映画体験としてそれが成立しているか否かにしかかかっていない。

そんな際どい細部はありこそすれ、しかし全体の作劇自体はやはりつまらない収束に落着するものでしかない。少年少女は自分達の手をけがして、「命」のやりとりをすべきだろう。

持続と断絶を操作するのにも、もう少し工夫は要るように思われる。だらしない台詞の垂れ流しは緊張を殺ぐものでしかなく。

 

△『皆殺しの流儀』(2014/イギリス/サッシャ・ベネット)

クズガキどもを引退ギャング達が退治するって話。フィックスで捉まえることが出来ないから人物のまわりをまわってみるだけのキャメラとか、今どきありがちな演出放棄。引退ギャング達含めて、大人がいない。拷問場面のやりとりの幼稚なつまらなさ。

 

〇『孤独な天使たち』(2012/イタリア/ベルナルド・ベルトルッチ

ベルトルッチは女性を愛している。息子が母親を愛するように。また若者を愛している。若くあるものの若さを愛するまなざしは、老いてあるものの若さのまなざしでもある。

人物を生理でつかまえる演出。そこにあるひとをそこにいるとおりにそこに映し出す。

 

◎『人魚姫』(2016/中国=香港/チャウ・シンチー

たとえば断崖の縁に座礁した難破船の舞台装置としての造形からして、こんなワンダーフルなアトラクションの発想が可能なこと自体、「香港」という映画の国に生まれる映画故のものと思えて仕方ない。また肉体を傷つけるに仮借なく傷を傷として露わにさせるセンスもまた、香港という中国圏の土地柄故のものと思えて仕方ない。

人魚とは、モチーフとしては飽くまで変形された人体であり、その人体を活用してこそ活劇は活劇足り得る。ときに惨酷とも言える活用のされ方に及ぶとしても、それこそが活劇の中で彼ら人魚の人魚たる由縁を証するものともなる。

人魚であることが露見する展開は、しかし呆気なく展開する。まことに呆気なくあっさり。人魚に実業家が惚れる瞬間が、一瞬の切り返しで端的に描かれる。至極端的に。この果断さは感動的ですらある。見る者は、その果断さにこそ笑って泣く。それこそ映画。

人魚の長老じみたばあ様の超能力。チャウ・シンチーのその超能力志向(?)には、尤もらしい神秘主義の影はみじんもなく偉大さへの崇敬だけがある。冗談も本気でやれば見る者も本気で見る。