映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最近見た映画(その01)

◯『映画 「聲の形」』(2016/日本/山田尚子

ミュージックビデオ風なスタート、音に(世界に)無邪気に心開いているかつての少年。水の流れの中に身を踊らせる、いつでもそこに水の流れがある、花火の音。行為の意図されざる反復は、その意味合いの対称性が投影されることで、主人公の男女の運命的合一を暗示。演出的な一貫。

家族=大人が大人でいてくれてこそ、子供は子供を十全に生ききることが出来る。

環境=小学生から高校生まで同じ土地、同じ友達という舞台設定。

コミュニケーション行為が健全に機能するなら(つまり話をすることが出来るなら)、「いじめ」は人間を極端には疎外しない。コミュニケーション行為の不全こそ今日的「いじめ」の悪意なのでは。

人物同士が話をする場面になるとどうしても映画としては停滞する。描写ではなく説明になる。

 

△『COP CAR/コップ・カー』(2015/アメリカ/ジョン・ワッツ)

アメリカ映画の中に現れる悪徳警官の、あの勿体ぶった腰を落とした歩き方、そして黒のサングラス。

サスペンスのアイデアがいまいち失笑をさそうのは作劇の中心が子供だからか。

子供には人殺しはさせない、しかし単なる遊びでも終わらせないという教育的劇構造。

 

◯『WE ARE Perfume WORLD TOUR 3rd DOCUMENT』(2015/日本/佐渡岳利)

素材のよさを活かすべくの、余分な要素の削ぎ落とし。御決まりのインタビューにも敢えて質問者の質問はかぶせず、三人の応答だけをきりとって出す。

締めで「MY COLAR」だけは全曲流すセンスは三人の心意気を理解したうえでの選択。

 

◎『目撃』(1997/アメリカ/クリント・イーストウッド

森の中を逃走するにも、決して息を切らすことなく、一定のペース配分で計ったように、しかし汗はしっかり掻き乍ら走り抜ける老練ぶり。目の前に大統領が現れて人殺しが演じられてもそのこと自体にはほとんど頓着しない冷静ぶり。けれどもテレビの中のその男がひととしての矜持を踏みにじるような所業を誰知らず露呈したそのさまを目撃して、俄かに一人で戦う決意を固めるその熱血ぶり。

文字通りの「ベテラン」。その道の「プロ」として、そしてひととしての矜持あらばこその映画。

 

◯『ジュリエッタ』(2016/スペイン/ペドロ・アルモドバル

路上でふと行き違う二人の女性、半身ショット、そのリバース。そのように呆気なく、ヒロインの運命を変える報告がとびこんでくる。

去っていく娘の場面に、ふとカットインする死んでいった男達のショット。それだけで、それが去っていく娘との長い別れの場面だと、直感的に把握される。

あまり重ねて説明をせず、描写を淡泊にきりはりする。それでも映画になるし、物語になる。

 

◯『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』(2016/アメリカ/リチャード・リンクレイター

80年代初頭の大学生。典型的風俗映画。ジェイソンにチェーンソーで八つ裂きにされるタイプの若者連中の青春群像なれど、それらしい人生蘊蓄もチョト含み尤もらしく設える。にしても、青春=モラトリアムという認識図式は、所詮「青春」なる虚構を生活する余裕をあたえられた連中のざれごと。