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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ピートと秘密の友達(2016/アメリカ)デヴィッド・ロウリー

洋画(アメリカ映画)

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空撮から始まる。なぜなら、それは空飛ぶ獣の物語だから。そんな律義さに、既に映画の良心がにじみでている。空撮は映画の中で幾度となく敢行されるが、それらが如何にも空飛ぶ獣から見おろされたようなやわらかな軌道を飛翔しているように見えるのは、たぶん偶然じゃない。

 

緑色の柔和な毛並をたたえた幻獣を巡る小さな物語は、アメリカ映画によくある親と子の物語でもあるが、ロバート・レッドフォード演じる父親がそこにいることで、物語は“子供達”の映画とも言える構造を見せることにもなる。たとえば、森の奥深くで幻獣にはじめて遭遇して、逃げ帰る途中にはっきり「あれはドラゴンだ!」といちばんに断定するのは、のちに利得を考えてそのドラゴンの捕獲に躍起となる兄貴だったりする。なぜなら兄貴は、ロバート・レッドフォード演じる父親から昔さんざんその話を聞かされた“子供達”の一人だから、というわけだ。またそのロバート・レッドフォード演じる父親が、現に話を聞く子供達に、森の奥にドラゴンを見つけることが出来るかも知れないし、あるいは逆にドラゴンに見つけられてしまうかも知れない、などと表現する台詞のアヤ(それは“出逢い”だということ)一つとっても、この映画に息づく良心はうかがわれる。

 

細部にまで配慮する脚本の志向は、ちょっとした演出的な趣向としてもあちこちに反映されているとも言える。ファンタジー映画によく描かれる爬虫類系の怪獣としてのドラゴンならあり得ない、人間をやさしく抱きとめることが出来るその器用な手は、最初に両親を失った少年を救い上げ、また最後に谷底に転落しそうになる車をも救い上げる。またその緑色の柔和な毛並は、少年にせよ女性にせよ、なぜかしら親愛的な人間の手に触れられるとにわかに生気を回復するように艶めき立ったりもする。そして何より、劇中それらの動態的な演出は何気なくだが印象的に反復される。動態的な演出の形を変えた反復がなぜ効果的なのかは映画というものの謎かも知れないが、あるいは物語は自己自身の無根拠性を自己自身の内に反復される運動を介して自己充足的に補填するものなのかも知れない。

 

兄貴をはじめとした町の男達に捕縛された手負のドラゴンが、透明になって姿を隠す場面。ドラゴンに親愛の情を抱く女性は、ふとその立ち位置をずらしてみることで、透明になったドラゴンの姿を朧に見出すことになる。その立ち位置をずらしてみる足元を瞬間画面にきっちり切り取るセンスこそ、映画的なセンス・オブ・ワンダーなのじゃないか。世界はちょっとだけ立ち位置をずらしてみるだけでつい先程までとは途端に異なる姿を見せてくる、という直観が、そんなささやかな細部への拘りにしかしはっきり露わになる。

 

良心なのだと思える。それは映画の作り手にとっての世界の見え方そのものであって、即ち映画の切り取り方そのものとなる。映画は世界から切り取るもので、切り取るその手は世界の見え方に基づいてそれを切り取るから。つまり作り手の素朴な良心の反映がそのまま映画となっている。

 

あの鬱蒼とした針葉樹の森林は、どうやらニュージーランドらしい。森林の木立の文字通り“林立”する様子がそれだけで印象的なイメージにもなっている。