映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

君の名は。(2016/日本)新海誠

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物語はあらかじめ入れ替わりが成立してしまったところから始まる。入れ替わりに至る前段としての日常的な描写はかえりみられず、むしろ入れ替わりをこそ物語の前提として日常的な描写を始める。奇跡はすでに起こっている。あとはひたすら帳尻を合わせていくだけ、というシナリオ。

予定調和は至極当然で、語りの時間は二人の出逢いという一点に向かって収斂する。それを物語と呼ぶにせよ、人生と呼ぶにせよ、その時間を生きているのは間違いなく一個の主体である限り、語りの時間は予定調和に過去を現在へ帰結させることになる。その現在に於ける過去の忘却は、まがうことなく現在の特権であり、忘却が可能なのは人間が現在の時間を生きているからなのだ。しかし同時に忘却は想起の逆説的な可能性でもあり、忘却される事柄は同時に想起されうる事柄ともなる(「一度あったことは忘れないもんさ、思い出せないだけで」@『千と千尋の神隠し』)。いずれにせよ忘却と想起の対象となる過去の存在論的な実在自体は揺るがないものとして展開される。

 

ディテールのきめ細やかな描写は、世界の豊かさの表象足り得るか。それが静止的な対象の描写にとどまるのなら、それは耽美的な感傷主義の玩物でしかないかも知れない。だがそれが事物の動態的な描写におよぶのなら、あるいはそこで世界のいっぺんとしての命が生きられることになるのかも知れない。ともあれ、事物が事物であるためには、世界が実在していなければならないのではないか。世界が実在しているとは、つまり図としての事物が描き出されるべき地としての背景がそこに揺るぎなくあるということで、揺るぎなく地がそこにあるからこそ図は図として際立ち、すなわち独自の命が生きられることにもなる。

画を描く少年と糸を紡ぐ少女というモチーフは、だからこその選択だろう。二人は二人の仕方で互いの世界を接近させる。その世界に存在するのはけっして二人だけではなく、友人や家族や仲間がその世界の成立に携わってくる。画や糸という物象(物証)が映画の表象の中で、物語論的な意味づけを超えてそれ自体の命を生きていたかどうかは疑わしいが、たんに点景的に描写されるだけの静止的な対象にどとまっていなかったことは確かではある。

 

物語は世界を生み世界は物語を生む。神話の昔からそれはそうだ。そして世界とは空間のことであり物語とは時間のことでもある。物語と世界、時間と空間は相関的なものではあれ、優位にあるのは時間なのかも知れない。即ち物語は、世界を書き換えることが出来る。物語が命を授かるのは世界からなのだが、世界から授かる命を物語は育てあげ活かすことが出来るのだ。時間=物語とは過去から現在、そして未来への過渡にあるものかも知れないが、それは世界にその生成を委ねたればこその認識であって、本来その世界を生成していくのは、時間=物語なのではある。

したがって、過去は書き換えられる。物語は世界の優位に立つから。忘却は常に想起の可能性に開かれているから。

 

キャラクターがアニメーションの中で画を描くというモチーフは、無論映画の作り手の自己言及とも見て取れる。アニメーションを創ることと物語が生まれることとがそこで重なり合う。巡礼、むべなるかな。