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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

火 Hee(2016/日本)桃井かおり

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片脚を高く抱えて、ハイヒールを脱ぎ落して、洗面台に爪先を乗せる女。画面が捉えるその面影ははっきり歳老いてもいなければ、けっして若くもなく。しかしまぎれもなく女。

女は喘ぐ、息を吸い、吐く、頬をひきつらせる、唇をゆがめる、目をむく、鼻で嗤う。身を揺らして踊る、物を持ち、落とす、歩き回る。はたまたコーヒーを啜る、礼を言う、喋る、喋り続ける。

そして。

 

桃井かおりが役柄になるのではなく、役柄が桃井かおりになるといった体の、確信的に開き直った潔さが、映画の映画足る由縁を充たして画面に表出する。老いと幼さの曖昧にいり混じるような、老女と少女とが交互にたち替わるような、その相貌と肢体の分裂的な揺動なり硬直なりの現れては消えていくさまをこそ、映画は映し出すべきものと確信的にとらまえ、映し出す。

画面、その断続が、たんに徒に対象の表出を写し取るにとどまらず、むしろ対象の表出を相対化するように、ときにカットが切り替わる。そのタイミングは、女の実存の振幅を、心理的読解の文脈に翻訳されてしまう以前の表層のうつろいとしてこそ切り出して見せる。

 

iPhoneの呼出音、デフォルトのよく耳に馴染んだあのメロディがどこからともなく聴こえる。どこからともなく、聴こえる。聴こえてくるそのメロディが、ふと画面のあちら側ではなくこちら側で鳴っているのではないかと気になる。あるいは、気にさわる。

サウンドトラックが飽くまで表層にとどまる。画面内の事物に道理として従属するだけのエフェクトならず、むしろ画面内の事物と等価かそれ以上にこそ立ち現れる物象としてことに際立たせられる。女のモノローグはオンにせよオフにせよモノローグとして自らに自らを重ね合わすように織り込まれ、その意味内容であるよりは独白そのものの声音だの脈拍だのにこそ、女の実存が刻み込まれる。

 

つまり、映画は映画でしかないということをよくわきまえている。それは限界の認識であると同時に本来的な可能性を最大化する認識でもある(鏡は鏡でしかないという認識の限界と可能性)。画面のあちら側にだけ映画があるのでなく、むしろそれを見つめるこちら側にこそ映画はある。故にその物語もまた然り。女優の戦慄く表情の表出、その肌理こそが、映画の肌理そのものとして艶めく。正しく言葉の通り、「艶めく」。映画を見続ける者がそれに気がつきさえすれば、それは現実として目の前に開かれている。