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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ダゲレオタイプの女(2016/フランス=ベルギー=日本)黒沢清

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カットからカットに、運動が持続する。あるいは断絶する。映画はつまりそれだけのことでしかない。だからカットを割ることは重要で、同時にカットを割らないことも重要になる。カットされる画面は基本的に平面で、いくらそれ自体で深度のある空間を表現しようとも、やはりカットとしての構図が画面そのものの本来をかたち造ってしまう。画面そのもの、つまりショットは、カットされること、あるいはカットされないことを前提に組織されるものだから。

たとえば青年が、冒頭、物語の舞台となる郊外の古家に辿り着く数カット。青年の歩く形姿=運動は、持続→断続→停止といった体で何気にシフトする。この運動の呼吸自体が映画の呼吸そのものではないのか。ヒロインは前半に於いては植物園を一人闊歩し、また階段を俄然走駆する。だが、階段落ちを経た後半に於いては視界から唐突に消え、そして再び現れ、また身動ぎもせず床に横たわる。即ち、ものの運動が画面を揺るがし、また物語を生きている。

 

コンスタンス・ルソーが階段を転げ落ちる。文字通りに転げ落ちる。だが「文字通りに」と表現してみたところで、文字は文字でしかなく、運動を写し取った画面そのものでも、あるいは画面に写し取られた運動そのものでもない。彼女は唐突に、理由もなく、階段を転げ落ちる。理由もなく、とは、運動の発端(原因)が欠如している、という意味でもある。なぜ落ちたのかわからない。わからないが落ちる。発端(原因)を、理由を欠如させた運動とは、即ち運命でしかない。

階段を転げ落ちるコンスタンス・ルソーのシーンは、カットが割られない。カットが割られないのは、落下が本当に落下だと観客から信用を買うためだ。だがカットが割られないままの落下に、その発端(原因)は映し出されていない。その欠如は、観客から買った信用を宙に浮かせてしまう。そこではただ、いかに落下するのかだけが問題で、なぜに落下するのかはいささかも問題にされないという仕方で、落下=運動そのもの(運命そのもの)が投げ出される。

これは本当に驚いていいことなのじゃないか。コンスタンス・ルソーは、ただ落ちる。ただ落ちたのだ。

 

亡霊は、生者の見る夢幻でしかないがゆえに、接近、即ち正視すればするほど正体を失っていく。恐らくはそんな亡霊と化してしまった「落下」後のヒロインは、だから決して画面の運動の中に主体として関わってこない。切り返す画面の対称性の中に等値されることもなく、空回りするひとり芝居を強いられる青年の周縁で、ただ視線を泳がせるだけでしかない。それは、あえて似ていると言えば、『惑星ソラリス』のナタリア・ボンダルチュクが演じた存在のありように似ている。そこにいるのにいない、存在するのに実在していない、生存する亡霊。

 

消える時は消える。対象の亡失の瑕疵は対象を亡失する主体にとってしかあきらかではない。だから映画は、亡失をただ物体的な亡失としてだけ表象する。それは映画の映画的なモラルでこそあって、けっしてアンチヒューマニズムではない。カットが変わった瞬間に世界が変質しているかも知れないという断続的な表象のセンスは、持続と断絶の狭間の表象たる映画でこそ本来的に活かされる。その実存することへの存在論的とも言えるセンスあらばこそ、たとえば恋人が恋人の胸に耳をあてて鼓動の音を確認するその仕草が求める感触が、かけがえのないものである筈だと見る者の心にも印象することになる。

 

聳え立つエッフェル塔で思い出すのは『大人は判ってくれない』だろうし、斜視気味のヒロインで思い出すのは小津安二郎原節子だ。