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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

続・深夜食堂(2016/日本)松岡錠司

邦画

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風、雨が窓外をにぎわしているかと思えば、しまいには雪も降ってくる。なんてことは、現実では当たり前すぎるほど当たり前の現象だろうが、映画の中では演出として組み込まれた映画的な現実と化す。映画的な現実は画面の内外の総体としての物語なりなんなりを紡ぐためのイメージの触媒であって、イメージの触媒はその映像としての物理的感触、つまりは物質のエロティシズムそのものの感触によってこそその映画の肌理をかたちづくることになる。風も、雨も、映画の中では自然であって自然ではない。それはたんに人為であるというにとどまらず、人為であることに於いてむしろたんなる自然を超えた、いわば超自然のイメージとなる。

 

深夜食堂こと「めしや」の主人が小気味よく料理をつくろうその手際、フライパン上に投げ出された具材に差しこまれる二本の箸の先端が躍るさまが、それだけで料理の「美味」ぶりを画面の中でかもしだすことになる。けっしてありきたりなフェティシズムに陥ることなく、しかし物質のエロティシズムそのものの感触を肌理として刻印する画面、などと言えば恐らく大げさではあっても、確かにそれは、人の手触りを通した料理には見えるのであって、その限りそれら料理のイメージは映画の主題を担うに足るイメージとしてそこに感受することができる。つまり、いかにも美味そうにそこに感じられる。

 

「めしや」の提灯看板がぶらさがる路地裏の美術は、ほんとにありそうでなさそうな、あるいはなさそうでありそうな、微妙なボーダーをたゆたうごとき際どい造形ぶりで、為にところどころに挿入されるその点景ショットは効果的に物語の画面の断続を彩ることになる。一見してはありそうでも、よく見るとあまりほんとにはなさそうな店名が並ぶ看板を置いて見せるセンスは、小津の映画が造形してみせたような路地裏の美術センスにも通じるキッチュな趣がある。そんな人工的な照明のあふれる、恐らくはセット撮影なのだろう路地裏のイメージが、露光つよく撮影されたロケーション撮影の夜の歓楽街のイメージと、無理なく連続的に同質な世界観を感触させられるようにまとめられている。

 

ほかにもたとえば、小島聖の昭和チックな四〇女ぶりはなんともぬかりなく(手元のたばこケースのセンス…)、四〇の彼女と二五の彼との回想の挿入のタイミングも、あるいはとある人物が何げない言葉を彼女と彼とにかけてみせるタイミングも、全体と細部が交感する演出の妙が小気味よく決まる。雨、風、あるいは雪の、当たり前のような演出がそれでも効果的に物語の画面を彩りうるのは、それら人物をとり巻く演出が実直に演出になっているからだ。ショットとして何気に印象するのは、やはり渡辺美佐子のタクシーを追うように駆けていくオダギリジョーの自転車のショット。なぜかは判らない。判らないが、警官が音を立てて懸命にペダルをこぐ自転車が画面にはいってくる瞬間に言葉にならない一点が心に穿たれる、そういうショット。そこでその警官の自転車がショットに入ってくるとこないとでは、物語自体の余韻すら全くちがってくる。そんなイメージの感触を介してこそ、映画は映画になり遂せる、とすら言える。