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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ヒメアノ~ル(2016/日本)吉田恵輔

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クリント・イーストウッド北野武が、映画の中で何故あれほどまでに敵を圧倒し去る最強ぶりを発揮できるのかと、どこかでだれかが尤もらしく語っていたことによれば、つまり彼らはその暴力行為の発動に際しあるべき段取を欠落させているからだ、という話になるらしい。それはもっと言えばその状況に適当な尤もらしい表情の欠落ということであり、そんな表情を欠落させたままの彼らは、如何にも文字通りに暴力行為を心理的な推移から「短絡」させることが出来る。それはつまり、心理的な推移を経て初めて暴力行為を発動できる敵に一歩も二歩も(1カットも2カットも)先んじることが出来るということであり、したがって彼らは映画の中でほとんど常に無敵に等しい最強ぶりを発揮できるという話になるらしい。尤もらしく響くようだが、確かにそれは映画の論理として正しい。それはつまり被写体とキャメラの相関としての画面の話だから。

 

『ヒメアノ~ル』の森田正一青年は、しかしクリント・イーストウッドでもなければ北野武でもない。彼はただの気の毒な精神異常者でしかない。ただの気の毒な精神異常者だから、その暴力行為は常にいき当たりばったりで、殺害すべき相手を絶命させるまでに何度も何度も凶器をふるわねばならない。『ヒメアノ~ル』はそのまどろっこしい殺戮絵図をこそ描く。まどろっこしい殺戮絵図こそが描くべきものと信じられているように見える。クリント・イーストウッド北野武が演じる男達が自ずと短絡させる心理的な推移をこそむしろ描こうとするのだから、つまり殺害の標的との距離は常に何歩も離れていなければならないし、殺害は、凶器を探す→凶器を握る→凶器を振う→さらに凶器を振う、といった形で拙劣な段取を踏まねばならない。

映画の中の悪趣味、というのはたぶんこういうものなのかも知れない。描写が描写自体に淫するように画面が造られている。太った男の痙攣する両足も、殴られる女の失禁する股間も、刺し殺される警官の血反吐も、如何にもこれ見よがしではあっても、ただこれ見よがしなだけでしかない。恐らくこれらの一見尤もらしい具体描写をほとんど省くことに於いてこそ、むしろより陰惨な暴力は描けようし、より切実な感傷も描ける。

 

人物達はそれこそ漫画のように類型的に造形されていて、それは絵に描いたような人物達の表情や仕草や台詞の細部、その間(ま)に端的にあらわれてしまう。それらはほとんど「撮影された演劇」のようなもので、被写体とキャメラの相関的な関係が画面の中に活かされることがない。人物達がいくら画面の中で泣こうが笑おうが、叫ぼうが、修羅場にのたうちまわろうが、画面の中でそれが捉えられないのなら、物語は映画としての緊張を発揮しえない。イメージの布置がたんに読解されるべき脈絡をしか形成しえず、イメージの刻印それ自体としての掛け替えのなさを実存することがない。

 

思うに、逆説的なようだが、「撮影された演劇」はロングショットに堪え得ない。佐津川愛美濱田岳に告白するベンチのシーンを見ていて、これをロングショットで撮っていたらどう見えるのか、とふと思った。それはともすれば画面自体によりなんらかの批評性を発揮するかも知れないし、あるいはたんにそこに何もないことを映し出すだけかも知れない。