映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

光りの墓(2015/タイ=イギリス=フランス=ドイツ=マレーシア )アピチャッポン・ウィーラセタクン

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画面の中で何かが移り変わる瞬間、それを捉まえるその目がそこに息づく限り、映画は映画であることをやめない。微分的な時間の偏差が、それ自体として映画の映画足る所以を保証する。時間の偏差とはすなわち現象の偏差だが、ここでの現象それ自体(たとえば色調の移り変わり)には、さしたる意味がはらまれるわけでもなく、ただ現象の偏差、つまり時間の偏差がそれ自体として、画面の中でその意義をもつ。

あの兵士達が眠り込んでいる病室の、青から赤へ、赤から青へと色を変じて見せる奇妙な形態の照明の変じ様は、その変じ様自体が映画の捉えるべき画面の「質」として意義をもつ。あの赤や青には、それ自体にプリミティブな意味合いは感じとられないわけでもないにせよ、それよりもむしろそこで実態としてその画面を画面足らしめる(映画を映画足らしめる)のは、何よりその移り変わる現象の、微分的な時間の偏差だ。

 

シュールレアリスム」と言ってしまえばそのかぎり映画固有の表象圏からは遠ざかるものになるようにも思えるが、一見して超現実的なイメージ(たとえば水色の空にゾウリムシ?)が画面に唐突にあっけなく挿入される荒唐無稽さは、しかしそれでも映画が映画足り得る表象圏のなかで映画を支えている。画面に唐突にあっけなく挿入されるイメージは、しかし映画がイメージの塊ではなく、むしろリアルな魂の露呈でこそあることを前提に画面に刻印されているように見える。そう見えるのは、やはりそれがあまりにも唐突にあっけないからかも知れぬが、その無言のままの跳躍こそがこの映画の映画足る脈拍を形成するのかも知れず。映画がみずからを疑いなく映画だと信じているが故の無言のままの跳躍。

なんとなれば映画とはそのまま現実そのものなのであって、それは眠って夢見る夢が、夢それ自体としてはまぎれもない、身も蓋も無い現実そのものでこそあるように現実そのものだ。つまり「それは何か」とは問えず(問い質すことに本来的な意義がなく)、ただ「それはそれだ」としか言い様もない“それ自体”を露呈させるものこそが映画だということ。その意味でそれは、むしろ通俗的な意味での「シュールレアリスム」の真逆でこそあり、またそれ故にこそまさに本来的な意味でのそれそのものでもある。

 

映画の中、人物と人物はたいがい対角線のかたちで座って話をする。並んでもいないし向き合ってもいない。あるいははじめ並んで話しているように見えても、人物はやがて位置をかえてべつの姿勢をとる。その対角線のかたちが、人物と人物の関係の平穏を暗に保証する。あいまいで柔和な微笑が嘘にならない。

午睡の夢からさめた瞬間のようなベッド上の青年のバストショットは平穏そのものだが、ラストショットたる女性のバストショットは不穏そのものだ。ショットは基本抑制されることで、むしろ必要なところで必然としてのショット本来のちからが発露する。

 

アピチャッポン氏の映画は何にも似ていないように見えるが、ただアピチャッポン氏の映画には似ている。みずからがみずからに「似ている」という倒錯的な偏差をこそ生きている。