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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ハドソン川の奇跡(2016/アメリカ)クリント・イーストウッド

洋画(アメリカ映画)

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原題の“Sully”とは、サリーフィールド機長の愛称としてアメリカでは聴き馴染みのある固有名詞の響きなのかもしれないが、それが敢えて映画のタイトルに冠せられてあることには逆説めいた含蓄があるようにも思える。固有名詞は確かに個人を示す固有名詞でありながら、しかしどこにでもあり得そうな固有名詞であること。つまり匿名的な一市民としてのサリーフィールド機長の存在の意味合いが、そこに暗示されてあるのではないか。

 

映画の開巻、機長はNYの街の川沿い(ハドソン川沿いか)をランニングしている。その運動の過程から端的にスタートする映画は、すでに独自のリズムを生き始めている。映画は機長のトラウマが見せる悪夢をそのままCGによる仮想の映像で機長の視界の中に現前させて見せるが、それは恐らく、911の悪夢を想起させながら見る者を映画の物語の中にみちびきいれるための触媒的なイメージでもある。あるいは想起ならずとも、そのイメージが機長の実存を脅かしていることの端的な表現として、それは活かされてもいる。

 

「155人」という端的な生存者数の報告が、ただそれだけで感動的に響くのは、それがただ事実だったからということではない。映画を見る者は物語の中でその報告を聞くに至るまで、出発から不時着水するまでの乗客達のあれこれ断片的だが印象的なやりとりや、乗務員達のあの懸命かつ冷静に規則的に連呼されるかけごえや、乗客救助に当然の責務としてかけつけるNY市民達のすがたを耳目におさめていたからこそ、その報告のはらんだ幸いな含蓄をトム・ハンクスの安堵の表情とともに素直に感受することが出来る。

 

映画は事後的に「決断した」者の自己証明に至る猶予的な時間を描く。自己証明が必要なのは逆説的に言ってまさに決断は決断としてそれ自体既になされてしまったからで、物語は事後的にそれを補完していくことでのみ成立する。現に「決断された」瞬間は、だから幾度となく変奏的に反復される。その変奏的に反復される叙法が「決断」の周縁を埋め合わせていくようにその核心へとコミットをこころみ、しかしつまるところ「人的要因」という核心ともならない核心が示されることで物語は収束する。「決断」に核心はなく、ただ「決断した」という事実だけがある。

 

事実だけだからこそそれは物語足り得る、というのはやはり逆説かも知れない。神の啓示のように物語は映画の中で偶然から必然に昇華するが、必然にはしかし理由がないままそれそのものとして成立する。