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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

Start Line(2016/日本)今村彩子

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映画の監督本人である聾唖の女性が伴走者の男性とともに日本を縦断する自転車の旅に挑む、その過程を記録したドキュメンタリー映画。

 

キャメラがあり、それがそこで回される、ということは、そのことだけでそこにいる人々の反応をひき起こす。そこに於いてキャメラは端的な「アクション」であり、だからこそその結実としての映画には人々の反応が「リアクション」として記録される。キャメラがそこに“あってない”ことが大前提のフィクションの映画ではなく、キャメラが“そこにある”ことが決定的な意義をはらんでしまうノンフィクションのドキュメンタリー映画を撮るということは、つまりそんな「アクション」と「リアクション」のゆき交う渦中にこそ自らを投じようとすることなのかも知れない。

 

この映画は、聾唖者として健常者とのコミュニケーションに苦手意識を覚える自分自身を変えようという監督の企図のもと、その旅の過程を収めるキャメラを回し始める。この映画のキャメラはけれども、主人公たる監督本人のみならず、むしろ伴走者の男性によっても積極的に回される。これが、この映画に於ける欠くべからざる視点となっているのは、恐らく初めの監督自身の企図の内にはっきり組み込まれていたものではなかったのかも知れない。

 

旅の先々でめぐり会う人々とコミュニケーションがとれたりとれなかったりすることに一喜一憂するような監督本人を、突き放すようにして問い質すこの伴走者の男性の存在は、それ自体が契機的な「アクション」として監督本人の「リアクション」をひき起こす。この伴走者の男性の存在を、初めから映画の内実的な伴走者としても認めて組み込んだのならそれは卓見だったろう。この人がそこに常にいてキャメラという主体をも積極的に担っていてくれたからこそ映画は「アクション」と「リアクション」への(つまりコミュニケーションへの)自意識を保ち続けることが出来た。

 

その人がその人であることは、決してその人がその人として存在しているだけのことではあきらかにはならないのではないか。その人がその人であることは、人と人との具体的な交わりの中でしかあきらかにならない。その人がその人であること(あるいは、その人でしかないこと)があきらかになる瞬間とは、ともすれば当人にとっても他人にとっても戦慄的な瞬間でさえあるのかも知れないが、コミュニケーションがそのあやうい瞬間に向けてそれでも投げかけられるものでないならば、それはたんなる談合にしかならない。

そんなこともふと感じる映画。