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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

勝手にしやがれ(1959/フランス)ジャン=リュック・ゴダール

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この映画を見るたび、ときに「ああ、これが」と実感できるショットがある。たとえば走行する車上から不図した拍子に垣間見える夜半のパリの街並(清冽と並ぶ街灯の光)、たとえばベルモンドが横死に向かって(緩慢にしかし確実に)よろめき乍ら疾走する白昼の路上、あるいはやはりセバーグの不意にキャメラを見つめ直すまなざし。

 

それらは確かにキャメラによって撮影されたという意味で、あるいは編集によって継ぎ接ぎされる素材でしかないという意味では「映像」なのだろう。だがやはり、それらは「映像」なんかではない。それらはむしろ端的なこの世界の断片だ、…と言いたくなる。「ヌーヴェル・ヴァーグ」なるカテゴライズが映画史的にどんな意味合いをもつのかさえ大して知らない人間でも、能々と目を開いて見つめこそするなら、それらは確かにその時その場に確実に生きられた現在として、今この時この場の現在に必ず息を吹き返す。

つまりそこで、この世に「それ」=映画があることと「これ」=自分があることが直結するのであって、その時それはたんなる「映像」に過ぎないものではなくなる。あるいは逆接的に、その時それはむしろ本来の意味でごく素朴な“たんなる映像”と化すのだと言ってもいい。“たんなる映像”は言わば時空を直結させる回路であって、事物の「それがそれ(自体)」であることを見る者の前に開示してみせる触媒だ。

 

映画は記録する。何を? 生を。そして生とは人間の生きた時空のことだ。「人生」とは言うが、しかしそれは文字通りの「人の生」でこそあって、それが物語としてあみあげられたかたちとしての「人生」も無論映画のモチーフではあろうが、しかしそれを真実にする、すなわち見るものにとっての現実と化さしめるのは、それがその時その場に現に生きられたという端的な刻印なのだと思われる。持続的であろうが断続的であろうが、たんなる「映像」ならぬ映画的な時空の編集(演出)技法は、本来それをこそ現にそこに(ここに)開示するための技法でこそあれ、それ以外のものではない。

 

誰かが曰く、「人生とは広義に於ける文学の引用である」と。セバーグのキャメラへのまなざしは、『不良少女モニカ』由来なのだろうが、モニカのまなざしの呪縛が現に生きられていたからこそのセバーグのキャメラへのまなざしなのであって、だからそれは決して「引用」ではない。なぜなら映画は「人の生」の記録だから。なけなしの出来あいでしかないという意味では貧相で、しかしそれ故にこそかけがえがないという意味で無限に豊饒な人の生の記録。それがそこに(ここに)あるということを触覚することの営み。