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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ふきげんな過去(2016/日本)前田司郎

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二階堂ふみの貌の映画。人の貌への凝視が、既知である筈だった面影のその既知の印象を脱色してしまう、ということはある。人の貌への凝視はあるいは現実にはあり得ざるフェティシズムの発露かも知れない。しかし現実にあり得ざるということが映画の欠点になるわけではなく、むしろ事物の既知の印象の脱色こそ映画の可能性の一端でさえあることは自明なことではないか。映画は事物を既知のものでなく未知のものとしてとらえることにこそ本来がある。つまり事物をあらたに(あらためて)発見することにこそ、映画の可能性の少なくとも一端はある。だからこの映画での二階堂ふみの貌も、映画の中でそのひと自身としての人の貌になる。それはもうフェティシズムというよりはマテリアリズムだ。

 

二階堂ふみの貌の映画。もしかすれば本当にそれだけなのかも知れない。被写体としての当人の自意識などとうに超えて、あるいはとうに超えてしまうそのことに於いてのみ、それは映画ならではの人の貌、その独り歩きの肖像と化す。映画にそんな人の貌の肖像さえあれば、恐らくあとは何がどうなったっていい。たとえば『気狂いピエロ』が見出されるべくして見出されるアンナ・カリーナの肖像の映画であるように、あとのことはその豊かな幹から伸びる枝葉(しかしやはり豊かな枝葉)なのでしかない。

 

夏の本来は空気への感応にこそある。ひとびとが肌身をさらすその空気への感応こそ夏という季節の本来のありようで、滞留していようが流動していようが、肌身がさらされるその空気がその画面に息づいていれば、それは夏の映画だと言っていい。セミが鳴く、風鈴が鳴る、しかしそれはどこまでも判然たる記号で、画面の肌理を縁どりはしても、けっして肌理そのものではない。画面の肌理とは恐らく、昼夜の光が人の肌に反射するそのにぶさや、額に張り付く髪の毛の幾筋かのほそさにこそそれとなく宿るもので、そこに人物の実存がかけがえなく映しこめられれば、それは映画になる。

 

夜半の静態と日中の動態。それもまた夏だ。季節は春夏秋冬、夜半の静態と日中の動態とで彩られようが、夏のそれはやはり人間の肌身の露呈に於いてあきらかになる。そしてこの映画での人間の肌身とは、ほとんど女性達の二本の脚であり、またその背中だ。横臥する娘のしどけなく絡み合う二本の脚、母親達が地に足つけて立つのときの二本の脚、赤子に乳をふくませている母親の背中、あるいは歳食った娘が歳食った母ともたれ合うその背中。肌身と肌身の接触が、夏の光陰の中で気温と体温とをまとって場面の中にほのめき立つ。

 

人物が、「動く」とは、つまり動きが寸断されることだ。映画に於いてはじつはそうなっている。傍らでバレエの練習をしているらしいよそのこを、女の子がじっと目をまるくして見つめている。キャメラはその見つめる表情をこそ見つめて、つまりじっと凝視するが、つかの間何某かの切欠で女の子は、「へんなおどり!」と捨て台詞を吐いて立ち去る。よそのこはバレエの練習をしつづけている。つまり、こういうこと。人物が、「動く」と、その動きは映画の中では寸断されねばならない。「対話」が発生するときに人物の切り返しが挿入されるのも、やはりそんな寸断。そんな寸断の呼吸が、この映画にもある。

 

川、水面、船。二階堂ふみ小泉今日子が寝泊まりする二階の部屋の大きな窓は、まるで船の船べりだ。その船べりに身をあずけて、二階堂ふみ小泉今日子も窓の外を見る。川の水面を滑る船は、ゆく時間の謂いかも知れないが、窓は窓で、ゆく時間に相対する自我の視座でもあるのかも知れず。あるいは、斜面。夜半の川から海を抜けて、そこがどこかもわからない場所にたどり着く。その斜面の微妙な斜度こそ、それもやはり映画の肌理を構成する。斜面の斜度があるとないとでは、映画の中の運動の肌理が様変わりしてしまう。人物が微妙なのぼりくだりを繰り返すことは、それが遥かな黄泉の旅路でさえあるかのようなほのかな錯覚の中に見るものを置くことになる。

 

いわゆる「中二病」的な、世界の停滞と断絶をめぐるセンチメンタリズムな衝動を乗り越えさせるのは、やはり現実の世界の停滞と断絶でしかない。要はそれを自分自身で体験すること。だとすれば「中二病」的心性への最大の応答は、「それでもやっぱり人生はつづく…(!)」でしかない。問いこそが答えになる。それは問いを問いとして真摯に生きたものにだけ与えられる答えでもある。