読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

インサイド・ヘッド(2015/アメリカ)ピート・ドクター、ロニー・デル・カルメン

f:id:menmoku:20170209231034j:plain

 

「よろこび」の感情をつかさどるらしい女の子キャラが暗闇の中から初登場すると、まず彼女が示す仕草は自分自身の体から伸びる手足を確認する仕草だったりする。「感情」が、まず生まれ出ずるなり自分自身の手足を確認する。これって妙だ。変だとは言わない、しかし妙だ。なぜ手足なのか。また、人のかかえるさまざまな思い出は、ここではまんまるの球体として擬されている。これも、なぜまんまるの球体なのか。

 

手足と球体。それは実感的ではある。自分自身で世界との関係を端的に生きるための切実な機関としての手足と、その手足にすっぽりとうまいこと収まってくるまんまるの球体。感情が記憶をつつみこむ、そんな仕組を、手足が球体をかかえこむという実感的な仕草の中に落とし込む「擬人化」。球体とは、言い換えれば「玉」であり、なけなしであるがゆえに、かけがえのない記憶のありようを、それは「玉」という形象そのもので表すかに見える。

 

しかし、その感情達のドタバタが、必ずしも見ていて気持ち湧き立つ活劇ぶりを示してくれないのはなぜなのかと言えば、それは恐らく、そのドタバタの舞台が心の(頭の)中という閉塞空間に終始してしまっているからではないか。なにかのテーマパークのように設えられた心の(頭の)中のセカイは、どこまでも既知の比喩的な表象の中でだけうごめいていて、けっしてそのセカイの縁を感じさせてはくれない。

 

そのセカイの縁とは、つまり心が壊れるか壊れないかという際どい臨界のことだろうし、そんな臨界を感じられない感情達のドタバタは、つまるところ平坦な意味での予定調和に収まるべくして収まるだけで、見ている者に架橋され得る物語にはなってくれない。「よろこび」と「かなしみ」のコンビがドタバタと一見活劇的にアクションを繰り広げても、そのセカイの縁が垣間見えないうちは、それはベッドの中の御伽噺にしかなってくれない。

 

たとえば、このさき自分はどうなっていくのかという不安、またあの人はどういう人なのかという疑念、あるいはそれら不安や疑念によってしまいには自分自身が滅ぼされてしまうかもしれないという恐怖、そんな生き物としての本来的な感情の起伏が息づいていない内心のセカイが、見ていて面白いものであるはずはない。

 

感情が五体を確認する仕草に始まる映画。しかしその五体はのっぺらぼうな「本質」から伸びる延長みたいなもので、手足の実存を生きてはいない。手で物を掴み取り、足で物を踏み拉く、そんな実感を具えることのないアクションは、けっきょくアクションにはなってくれない。アクションがアクションになってくれないということは、ドラマもドラマにはなってくれない。

感情の手足が球体の記憶を大事にかかえこむその様子こそ確かに実感的ではあっても、その手足がドタバタと自ら奮闘するさまをそこに描けなかったことは、この映画を悪い意味での「擬人化」の中に置きとどめてしまった。心の(頭の)中を凡庸な閉塞空間としてのテーマパークのようにしか描けなかった限界。