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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

映画 ビリギャル(2015/日本)土井裕泰

邦画

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何かを見つめる少女の面影のカットから映画は始まるが、何より何かしらの空気をふるわせるような音響が、さりげなくにせよ見る者の耳に届いてくる。カット変わればそれば鉄橋上を走る抜ける新幹線の走行音だということは判るが、さりげなくにせよ届いてくる音響が、まずもって映画らしい空気を発散し始める。空気をふるわせるような音響だからこそ、それを媒体とした空間と場所とが映画のそれとして画面の中に実存し始める。

 

役者達の情緒的な芝居に乗っかるだけの脚本と演出のようでいて、必ずしもそうではないようにも見える。人物と人物が何がしかの反目や、あるいは共同の関係を生きていて、それがときに軋轢や調和として表面化してドラマを生む、その過程がそれなりに人物各自の立場をわきまえさせたうえでロジカルに構成されているから、そこに展開される人物達のエモーショナルな演技にも、生理的な説得性が生まれる。

たとえば、息子に不意に突き飛ばされる父親の床に転がる姿は見おろされる様なカットで撮られねばならないし、逆上した母親のバットはしかし飽くまで父親本人にではなく振りおろされねばならないし、失意のヒロインは母親にきつく抱擁されるに雨にうたれてそぼ濡れた姿でなければならない。脚本と演出が、人物の心理をそのまま生理として役者が体現できるような枠組をかたちづくる。

作劇の一つの基幹となる姉と弟の対称に於いては、挫折した弟の捨て台詞にいったんは姉が置き捨てられ、今度は逆に再起しようとする姉の捨て台詞に弟が置き捨てられる。「お前とは違う!」という姉の懸命の言葉が、画面の中ではフォーカスさえされない弟の、その心のうちにどう響いたかを、ふと想像させられてしまう、それは演出的な対称だろう。

久しぶりに自分の背中に乗っかってきた娘をおんぶする父親の、目ににじんでいくほんのちょっとした涙を微分するように慈しみたくさえなるような、そういう映画になっている。

 

実話が元とは言え、映画の物語は事実とは細部に於いて大きく異なる物語になっているらしいが、映画のそれは、もはやヒロインがその受験闘争に勝っても負けても十分に成立する物語になっているわけで、だいたい最初はギャルファッションの露出過多の肢体が印象にちらつくだけだったヒロインが、最後はきちんと愛着ある人物に仕あがって見えるのだから、これは成功なんだろう。

勉学を重ねてものごとを識っていくことが、たんに受験の勝負の問題としてだけでなく人格陶冶の基礎でもあり得るのだという、なんとなれば古臭いビルドゥングスロマン足らんとしていることも、悪くない。