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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

乃梨子の場合(2014/日本)坂本礼

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71分、ピンク映画なのらしい。しかしその割に濡場にしつこくない。しつこくない濡場は、それ自体のくんずほぐれつがそのまま人物間の心理=生理のドラマ的な運動そのものの如くに見えてくる。それでなくとも、71分という、一般映画に比べれば短いと言えるだろう尺がものを言う。それだけその映画は駆足で物語を物語る。その為に余分はきり捨てられて、たとえばやり取りされる一つ一つのセリフにも拳骨で相手を殴りつけるような命ある生硬さがこめられる。

 

唐突にシーンを分割するようなカットが瞬間挿入される。ピンク映画なのらしいから濡場もあるにせよ、そこにもカットは瞬間挿入される。カットの瞬間挿入はしかし意味としてシーンを殊更補完するでもなく、たんにこれは映画だからそんなことだってできてしまうといった案配で挿入される。このカットの瞬間挿入は、おそらくカットとしての含蓄よりは、挿入自体の異化効果にこそ意義はあり、しかそれは物語の文脈に依拠するものでもなく、映画自体の肌理として画面の断続の脈拍の中にこそある。

 

「ばけものが!」と、これもまた唐突にも響くだろう脈拍で難詰されるヒロインの、その「ばけもの」ぶりは、けれども確かに説得的だ。それが説得的なのはやはりカットの瞬間挿入にも垣間見えるような映画自体がまとう画面の断続にまつわる肌理が、その突出する命ある生硬さを肯定しているからではないのか。カットがあられもなく瞬間挿入される脈拍が現に画面を息づかせるような映画だからこそ、見る者はその画面の中の人物の動態性をそのまま肯定せざるを得なくなる。

 

男女がことあるごとにからだを求めあうこの映画に、しかし交情にまつわる感傷が一見希薄なのは、からだを求めあうことが、ぶつけあいなすりつけあう行為としてあからさまに判然と映し出されるからだ。そして一見希薄に見えていた感傷は、そのじつ抑圧された衝動として物語の中で人物を動転させる。「ばけものが!」との唐突なもの言いがけれど必ずしも唐突なだけでなく、見る者に説得的な響きをいだかせ得るのは、映画が劇中の男女に出来あいの感傷に甘んじるいとまをあたえなかったからではないか。その男女間の心理=生理として、その脈拍が見る者に了解され得た。

 

「あたしあんたと佃煮つくる」なんてセリフが、熱烈な口づけより愛のある言葉として作劇の中に息づく映画。そのとうの人物だって殊更尺を割いて描き出されるわけでさえないのに、それでもその人物のそういう呼吸のもの言いが納得できる。71分という制約がむしろこんな作劇を可能にしたのかも知れず。

 

しがない現在の東京の、どうということもない路傍の、昼夜の空気。