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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

映画覚書・02(「そこ」)

映画覚書

映画についての評言。

 

言葉が視聴覚的な体験の直接性そのものからでなく、意識的な間接性から出ているように読める場合のそれは、事象を分節化する「理解」の無自覚なみ振りでしかないのではないか。言分けしたくても言分けしがたいとうの体験の直接性の感触が希薄で、事前的な「理解」の枠組の中にとくに困難も覚えないまま事象の分節化をゆだねているような言葉(たとえ一見、修辞的に直接性に依拠しているように読めても、言葉にすることの困難を覚えないままの言葉には何かしら定言的な既視感がまとわりつく)。

 

たとえば、子供が見たことのない映画を見るようにとうの映画を見ることは出来ないか。あるいは、それを言葉にするなら子供がそれを希少な言葉の中からなんとか言葉にするように言葉に出来ないか。インテリ的性癖とはつまり知っているふりをする(つもりになる)ことだろうが、であるならばむしろ知らないふり(つもり)を貫くこと。

 

つまり、本来なにもなかったはずなのにしかしそれはそこにある、見える、という「そこ」にこそたえず立ち還ること。