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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

世紀の光(2006/タイ=フランス=オーストリア)アピチャッポン・ウィーラセタクン

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この地球上のあらゆる場所、その空間もすべては宇宙の一部なのだと。それはもしかしたら、「映画」という一見して文化的・人間的とも了解される枠組を超えた端的な事実でこそあって、そんなみもふたもないようなあられもない事実を、この映画は「映画」という地表的な表象の中に敢えてたまさか落とし込んだのだ、とは言えてしまうのかも知れない。その映画が「映画」よりも大きなものを目指している限り、それはつまりは私らのよく見知っている筈の「映画」ではないのかも知れないが、それでもそれは、一本の映画としてともかくそこにある。

 

この世のどこにもない(なかった)、何にも似ていない、そんな映画がこの世にあるかと言えば、無論ない。私ら一人ひとりがそんなしかたでは実存していないように、具体的な映画もまた、やはりそんな透徹した超越を実存したりはしていない。だが逆に、だからと言ってこの世のどこかにある(あった)、何かに似ているとそれを殊更言挙げしてみたところで、それがそのように実存していることそのものを判然と言い当てられるわけでもない。つまるところ、“それはそれ”でしかなく、そこからしかそれの何であるかもあきらかには為されえない。

 

この地球上のあらゆる場所、その空間もすべては宇宙の一部、なんていうみもふたもない事実は、その事実そのものを現に実存している事物自体の影をこそそこに見出すことによって、判然として画面の中に現前し始める。それはしかし、なんらかのフェティシズム、象徴的記号化としての表象に陥ることなく、飽くまで事物自体の影をこそ画面の中に捉えようとすることで、実現する。

しがない病院の人気のない廊下、そのちょっとした照明の消失が、たちまち空間自体を異化し、そこにあたかも恒星間を航行する宇宙船の船内のようなイメージをかもしだし、あるいは密閉された室内で微妙な対流に揺らめく薄煙は、遥かに豊かに巨大な宇宙空間に点在する星雲のように中空にただよい、天井から延びる銀色のダクト、その吸入口にぼっかりと開いた暗黒は、ほとんどブラックホールのように全き暗黒自体を画面の中に大きく示し、異次元へのワームホールのように密室の星雲たる揺らめく薄煙を音もなく吸いこみ続ける。

それでなくとも、たとえば病院の周囲に広がる美しい黄緑の田園風景はまるで病院と隔絶した外宇宙のように人びとのシルエットを外部から縁どり、あるいはその人びとが爪弾き、囁くように歌い、耳を傾け、身を任せてクネらせ躍らせる細やかなメロディやリズムは、逆に人びと自身の内宇宙の鼓動、律動のようでもある。

 

内宇宙と外宇宙、あるいは実存する一個の人間という宇宙の内外、その肖像が、記号的な暗喩としてでなく、縮減された宇宙の形象そのものとして画面に映し出される。映画のキャメラという本来無機的な機構自体が、本来はらんでいる表象の異化効果がその画面を実現させる。“それはそれ”でしかない、そこから始めて、またそこへと留まり続けることで、その画面は実現する。