読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

シン・ゴジラ(2016/日本)庵野秀明

f:id:menmoku:20170209225942j:plain

 

唯一無二な超生物として変態を重ねてきたゴジラが、文字通りに全身から凄まじい光と熱をありったけに「放射」する。もはや裂傷そのもののように赤々とした口をばっくりと開き切って地表に向かって火炎を、光源そのもののように煌々とした背びれ尾びれをふりかざすようにして光線を、文字通りに「放射」するそのありようこそが、ゴジラゴジラ足る所以をそれでもそこに示し得ていたように見えて、感傷的になってしまう。

災害の中心そのものなのに、災厄の全部をその全身で負いこんでその全霊で耐えぬいているように見えてしまうその逆説的で矛盾的な存在が、如何にも「ゴジラ」のように見えて仕方ない。「カミ」という言葉も今の日本人が口にすればただ陳腐なだけなのに、それでもそれが確かにそういう存在としての「対象」足り得てしまうのは不思議ですらある。

 

新井英樹の怪獣漫画「ザ・ワールド・イズ・マイン」で、怪獣ヒグマドンが東北の田舎町を蹂躙する、そんな状況で弾き飛ばされる電車の中から瞬間ヒグマドンを目撃した幼児が、一言「でっけ…」とつぶやく。そんな「視点」が、この怪獣映画にはない。何気ない人物がたった一言つぶやくセリフだけで事象のなんたるかがたちまち了解できてしまう、そんな劇的な細部としての「視点」がこの怪獣映画にはない。

この映画では、ひたすら怪獣の出現をめぐる人物群像がごく限られた社会空間の中で演じられることに終始する。その人物達の立居振舞はそのままアニメのキャラクターに演じさせたほうがしっくりくるだろう定型にいびつなまでに嵌められていて、そんなところで国家だなんだと語られても観念の遊戯を弄ばせているようにしか見えない。

怪獣漫画の中の、幼児がつぶやく「でっけ...」のたった一言に、この映画のそれらは全く及ばない。人物の中に「対象」と切り結ぶ「視点」を設定できていないから。「視点」を設定できていないのは、人物の社会的・実存的立脚点が曖昧だからで、したがって人物と「対象」との距離も曖昧になって、人物の立居振舞から有機的なアクションやリアクションが出てこないことになる。

 

しかし見つめる「視点」の視座が曖昧でも、ゴジラは見つめられる「対象」であり続けることをやめない。全身全霊で光と熱を「放射」するゴジラは、やはりゴジラだと自分には見えた。その全身全霊ぶりだけがこの映画をそれでもゴジラ映画にする。そしてこの映画のゴジラは、あの不自然にどっしりと安定した非日常のシルエットのまま日常の中にあり続けることにさえなってしまう。この始末のつかないいびつなビジョンは確かに最も今日的なビジョンではあるのかも知れず。