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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ディストラクション・ベイビーズ(2016/日本)真利子哲也

邦画

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船泊の海辺の水面が銀色に鈍くぎらつく冒頭、弟のモノローグがかぶさる画面がやがて船泊全体の上方からのロングショットにひいて、サウンドトラックのギターがギタギタと叩きつけられるように響く瞬間、映画が(画面が)その内側からにわかに息をし始める。

 

映画にとってどこからともなく現れどこへともなく去るような、言葉通りに不敵な笑みをはりついたようにたたえてやまないその男は、『家族ゲーム』の長身の家庭教師がそう評されたごとく、「ゴジラ」なんだろう。ゴジラとは本来映画の想像力が欲望したその化身でこそあって、この映画のその男の肖像も、やはり映画の想像力が欲望したその化身でこそあるという意味で、まさしくゴジラ

 

しかし要は、そのゴジラが本当にゴジラ足りえている、その映画の(画面の)中での所以でこそある。

たとえばその男の目つきが、はっきり目の前のものを見据えている筈なのに、しかしそのじつ目の前のものなど眼中にないかのように見える、そのこと。たとえばその男の見せる顔つきが、人間の感情の表出としての表情であるよりもまえに、その顔をして生まれてきて死んでいくような肖像としての顔つきそのものに見える、そのこと。たとえばその男の体つきが、けっして長身とは言えず、肉体の上下のバランスも必ずしもスマートではない、中肉中背の頑なな体つきとして構成されている、そのこと。

事実としての存在(実存)が端的にそこにあらわになっていることが、映画の(画面の)中での彼の強みであり、また全てであるということ。なけなしであるが故に、かけがえのない強さ。

 

その強さのまわりで群像がいくら立ち騒いでも、けっきょく立ち騒ぐだけのことにしかなっていないのは、映画としての作劇の弱みではある。SNS関連の今風な世間の描写が挿入される途端に、言葉通り映画の印象は「拡散」してしまう。せっかく目の前に稀代の怪物をあらたに創出しておきながら、けっきょく映画はその怪物を見せきることができなかった。

たとえば、怪物にからみつこうとしてからみつけなかった若い男や、そこに行きずりにまきこまれる若い女や、彼や彼女がけっして相関関係など交感しえないこと自体、若者なりの(暗黙の)時評性ではあるのかも知れないが、そんな彼や彼女の肖像を、感傷としてではなくしかし人間的な抒情を込めて描き出せたなら、それは大人の映画足り得ていた筈でもある。

 

ローカルに出生する怪物が、ローカルに帰着する。いくらSNS的な見せかけの社会的波及性が拡大しても、それが無為な拡散にしか見えてこないような、命が出生することの機密が、ローカルには潜在しているという直観。

怪物であるとは命であるということであって、命であるということは怪物であるということなのかも知れず。