映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

二重生活(2016/日本)岸善幸

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映画冒頭、朝、彼女が彼氏と起き抜けの性交にはげんだあと、徐にベッドから身を起こす。その身を起こす緩慢な動作が、それとなく中を抜かれた編集で提示される。そこからして、なぜそんな半端な見せ方をしなくちゃならないのかがわからない。要らないなら見せず、要るなら見せる。それはそういう確信のない曖昧な編集であり、撮影であり、つまりは演出でしかないんじゃないか。

 

尾行が露見し、その尾行のターゲットだった男となぜかホテルになだれ込み、若い彼女の幼い独白に至るが、しかしそこで彼女は、脱いだ服を着ようとするようで着ないまま、独白する。着ようとするようで着ない、その半端な動作はそりゃ半端な動揺を暗に示す為の演出なのかも知れないが、半端なものを半端なままに見せられてしまうことにはなんの感動も、感慨も、感傷すらも生じないわけで、つまり彼女の人物を示す演出としても無力でしかない。

 

彼女はターゲットを尾行するが、その尾行にも工夫がない。さしたるアイデアもない尾行を素人そのままの振る舞いで続けるのを見ていても、彼女がその行為に主体的な意欲を覚え始めたことなど見て取ることもできないままで、どうということもなく話は進む。そして実際彼女は最初から最後まで発案者である教授の手の中で泳いでいるだけの存在でしかない。

 

それこそ実存としての「哲学者」と言うより、いわゆる「哲学学者」でしかない“教授”。そこに当てがわれる、アタマでっかちな観念論者の生活不具者、という紋切型のイメージの退屈さ。物語論的には彼はファウストでありメフィストフェレスなのかも知れないが、その謂いで言えば哲学的感受性は本来的に「今」にこそ(「今」にだけ)開かれているのであり、こんな感傷的な頽廃の曖昧さには肯かない(肯けない)だろう。

 

不倫男女が不意にもよおしたように隠れて体を求め合うビルの谷間、かたわらの壁に「みだりに立ち入る行為を禁ずる」とか何気なく書いて貼ってある。そんなところを敢えて選ぶって冗談なのかなんなのか不明。なんにせよ、あまりにセンスないんじゃないか、と。

 

リップヴァンウィンクルの花嫁』みたいな話。無力で魅力に乏しいヒロインは観客である私らのうつしみとでも言うのか。でも、つまらない。キャラクターに話を収束させるに足るだけの主体性も個性もなく、また演出に『クリーピー』の絶叫のような力業もなければ、そりゃ敢え無く弛緩するほか無く。