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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

徳川セックス禁止令 色情大名(1972/日本)鈴木則文

邦画

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脚本にあらかじめ映画を映画なさしめる為の意図があきらかに埋め込まれていたりする。場面をまたいで異なる人物間でセリフが接ぎ木されるように反復される。反復されるそのことによって画面の断続にリズムが生まれ、ほとんどそれだけのことで「映画」はあっさり創り出されてしまう。本来ならなによりそういう身も蓋もないリズムこそが映画を「映画」にするのだろうし、むしろそれを欠いてしまうと映画は停滞したメロドラマと堕し、とてもでないが「艶笑譚」なんて上等なシロモノは産みだし得なくなる。

 

序盤は快調に進み始めるこの映画とて、そんな停滞の罠と無縁ではない。渡辺文雄がサンドラ・ジュリアンをいたぶる対話の場面では、何故か不可解なほどにキャメラはフィックスに固定され、目前で演じられる対話を、たんによそ目にはどうでもいい出来事のように映し出し、ほとんど演出を投げ出している(ように見える)。 少しでもクローズアップでの切り返しなりなんなり手を加えれば、その程度ドラマチックにも見えようものが、ここではそれも何故かしら意図されていない。

 

人と人が、と言うより体と体がくんずほぐれつのセックスシーンは、対象と対象がゼロ距離で密着するだけにカット割りも平板になり、画面に動きならぬ蠢きが映るだけで退屈な場面になりがちだが、この映画はそこでは健気に人物間にカットを割ってはいらせて、なんとか画面に動きを差しいれようとする。だが如何せん割ったら割ったで画面は対象のいっぽうをだけ映すのみで、これはこれで人物間のエロティックな睦びあいをカタチとして映し出すには至らない。

 

カットを割るには距離が必要で、距離は落差を生み、落差は笑いのタネになる…のではないか。逆に言えば、カットを割れないということは笑いをも生めないということではある。俗に「艶笑譚」なんて言われるシロモノは、だからそれ自体映画では矛盾的なシロモノでしかあり得ないのかも知れない。「艶」と「笑」は人間性の露呈ということで文学的には通じ合うモチーフとなるだろうが、こと映画的には対象同士の距離の問題に変換されてしまう為に、相違うモチーフになってしまうのじゃないか。

 

この映画でも素直に愉快なのは人物間の距離が落差をはらんだ序盤でこそあって、対象同士の、つまりは人間同士の距離が密着し始めると映画はリズムを失って停滞する。若い女の切腹の場面など、その中でも見るべきものとなっている場面は、やはり画面から画面へのイメージの落差と断続のリズムこそが場面を映画として成立させている。安易な泣きや笑いを躊躇わせるような真率さがこんな映画でも、と言うより、むしろこんな映画だからこそ成立する。

 

安易な泣きも笑いも躊躇わせるが、しかしひっくるめればやはりシニカルな笑いこそが作劇全体を貫く。それは飽くまで社会的・言語的で、映画の画面はむしろそれにより停滞するだろうが、その枠組がなければ作劇は全体としてモラリスティックな箍をも失い、エログロな細部はただ趣味に淫する印象をしかもたらさないかも知れない。ただ趣味に淫するだけのエログロな細部は、本質として孤立に閉塞・内向するセンチメンタリズムの発露でしかない。

 

名和宏の顔がかわいい。生一本であるが故に気狂いめいた間抜けをぶざまに晒す殿様の顔。「役者」がまだ健在だった72年。物量にせよ、人材にせよ、エログロ映画にでもまだこれだけの資産を投入できた、72年当時の日本映画界。内容の豊かさに垣間見える、時代が異なるということの痛切。