映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

クリーピー 偽りの隣人(2016/日本)黒沢清

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映画の中には、何より時間的に空間が広がる。思うに映画の表象で文学だの音楽だの絵画だのという表象と最も異なるのはそこなのじゃないか。それはたんに静態的な空間でなく時間的な一定の振幅をこそはらんで展開する動態的な空間であることに大事があって、そこが欠落する映画は映画としての豊かさをはらみえないと言い切ってもいいのじゃないか。

 

だが、空間が空間である為には、そこに具体的な道具立としての細部が刻まれなければならず、でなければそれは平板な印象のまま意識、あるいは無意識からいたずらに流れ去っていくだけのことにしかならない。具体的な細部とは、画面の中の有機的な人物や事物が固有にはらむ時間に於いて活かし活かされするもののことでこそあり、その呼吸の往還が停滞すれば、画面が、即ち映画が停滞する。

 

現実との類似性としてのリアリティなんてどうでもいい、なんてことは誰も言えないにせよ(映画の中の人物も事物も全ては現実の借用、つまり仮象なのだから)、映画には映画に固有の質(リアリズム)もあるのではあり、だからそれは、映画の中の、画面の中の、人物や事物のはらむ各個の時間の有機的な連関、その密度に於いてこそ測られるのでもある。

 

この映画に余計なものは多い。画面の構成に余計なものが多い分だけ、かつての『CURE』や『回路』のような思い切りのいい洗練よりは停滞しているのかも知れない。とくに話をまとめようとする段になると、どうしても因果的な収束にしばられて、人や物が自在の可能性をそのままには生きられなくなる。しかしそれでも、たとえば画面に人や物が入ってくる瞬間(あの犬…)のどこか唐突ないびつや、暗転明転する照明のあからさまは、画面の中で空間を動態的に意識させながらかろうじて自在の可能性を生きようとはしていなかったか。

 

いっぽう「空間」ならぬ「場所」が映画の内容を規定するとも言える。端的に日本はアメリカではないので日本には日本なりの舞台の道具立と演出は必要になる。それは抽象的な「空間」という一見グローバルな観念的枠組よりももっとローカルな枠組で、より映画の実態的な肌理の次元の話になるのだろうが、たとえば映画に於いて「空間」と「場所」の狭間には、ある物語を外語から母語へと置き換えるような翻案的な間隔が生じるのかも知れない。

 

この映画の映し出す場所はどこなのか。あるいはまた、この映画の映し出す人物はだれなのか。どこにいって、だれを殺しあるいは生かせばいいのか。どこまでが現実でどこからが映画であっていいのか。(たとえばこの映画をどんな観客がどれだけ観に来るのか。)無理くりは承知なのだと思える。だからこその、あの絶叫なのだとも思える。