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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

回転(1961/イギリス)ジャック・クレイトン

洋画(ヨーロッパ映画)

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黒衣の女幽霊が写っている。そこに確かに黒衣の女幽霊が写っているように見えてしまうのは、それが面影でありながら同時に面影でしかないからかも知れない。なんでそんなものを映し出すことが出来るのか。一つには画面がモノクロであること、二つにはそれが61年当時の鮮明度であることが挙げられるのではないか。とくに二つ目、61年当時のフィルムの映像の鮮明度(こんにちで言えば解像度)であることは、その主要な要件でさえあるかも知れない。現在でも敢えて解像度を落として同様の映像をつくることは出来るだろうし、実際この映画のような映像としての幽霊表現はこんにちでも常套的な手法にさえなっているように思えるが、この映画のそれはその映像的な演出の痕跡が希薄で、実際図らず心霊映像が撮れてしまったかの如くに、黒衣の女幽霊がそこに映っている。

 

日本語の「写るー映る」とは、恐らく音の同じ「移る」にも通じているのかも知れないが、確かに「写るー映る」面影にはその存在が「移る」のだろう。であるからには、幽霊を写したー映した映像は、幽霊という本来的に実体を喪失した存在を写すー映すその限りそれ自体が幽霊でさえあることになるだろう。だからこの映画の黒衣の女幽霊は、いわば本物だ。面影でありながら同時に面影でしかないような空虚なその存在の様態を具象としての映像が奇妙絶妙に実現している限り、表象=実体として、それは幽霊そのものだ。

 

その奇妙とも絶妙とも言い得るだろう幽霊映像は、たとえばこんにち的な映像の鮮明さの中で再現されるなら人為的な演出の痕跡を拭い難くその表現にまとわりつかせるだろう。だからこそその幽霊映像は、こんにち的にも際立つ。映画を見る者がまさにそれを(つくりものとわきまえつつ)確かに幽霊として目撃してしまうということ自体が、それを本物の幽霊と化さしめる。この映画の黒衣の女幽霊は、だから本物だ。もしかしたらそれはその時にしか実現しえなかった表象なのかも知れないが、だとすればそのことに於いても尚それは幽霊の表象ならぬ表象の幽霊としての証を立てていることになるだろう。

 

なにしろ、幽霊が本物だから、それに憑依されるデボラ・カーも深刻ではある。映画は少年少女への悪霊の憑依を説いてまわるデボラ・カーこそがじつは憑依されている当事者なのではないかという視点をふくめて物語を描写している。幽霊が実体を欠いた存在であるのなら、それは即ちそれを目撃するものの鏡であって、デボラ・カー演じる女性は自身が暗に見たいものをこそそこに見てしまっているのかも知れず、それが抑圧された性衝動であろうことは、少年の口吻との刹那的な、しかし肉感的な交わりの描写にも明確に見て取れる。

 

よりデボラ・カー演じる女性の無意識に親しい存在なのだろう黒衣の女幽霊こそ判然と幽霊然として映し出され、同時にそのほんの一瞬の口吻の交わりが如何にもエロティックな断片として明確に示される。限られた細部で際立たせて語るべきことを語る、物語映画の巧緻。

 

恐ろしいと言えば恐ろしい、哀しいと言えば哀しい話。