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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

きみはいい子(2015/日本)呉美保

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辻褄が合わせられていく映画、つなげられていく映画。

 

食事のシーンから食事のシーンにつないだり、叫び声から叫び声につないだり、あるいは落ちる涙から雨の一雫につないだり。物語上直接に関係しないエピソードを「つなぐ」ための、また人物と人物や、人間と天地の営為をさえイメージ上で「つなぐ」ための、ショット同士の結びつきこそが映画の要としてことさらに意識される。

人物達の挙動は過去と現在の、自己と他者の相関の中に裏書された関係性の表出として律儀に辻褄が合わせられ、それもやはりまた因果的な連環の中につながれる。それが見ていていかにも“律儀”と意識されるのは、その為の細部が「これを見よ」とばかり逐一画面にきりとられるからでこそある。言わば、合点がいくように、合点がいくようにと映画が構成される。

 

しかしたとえば、高良健吾演じる若手先生に難癖つけてくるらしい親達の描かれかたなど見るとどうなのか。かの人々は電話で話すその口元だけがきりとられ、言わば固有の人格的存在者としては描かれない。かの人々は今時言われるところの「モンスターペアレンツ」としてでもイメージされているからこそのそのあつかいなのかも知れないが、物語の描かれるべき内部と外部をわかつようなそんな描かれかたは、ことさら物事と物事のイメージを連環させ「つなぐ」ことを意識したかに見えるこの映画にあって矛盾ではなかったか。

 

ラストシーンでの幕引きのありようは、言わば映画の物語が本来相対しなければならない相手と向き合う直前で終わってしまう。内部が外部と向き合う覚悟をしたそれまでの、しかしそれまででしかないドラマは、出来合いの善意の内部で自己完結していないか。

あのあと高良健吾演じる若手先生は、映画冒頭に老婆の前で露呈した一方的な(それ故ひとり善がりで失礼な)挨拶以上の対話を演じることは出来るのか。それができるかできないかもよく判然としないままの作劇は、果たして成功していると言えるのか。

 

扉の向こうにあるのは忌むべき暗闇、…なんかではないかも知れない。そこにはそこにもまた、ただ多少ふつう(?)とは異なる事情を生きざるを得なかった人生があるだけかも知れない。しかしそこに接触するに、内部に自足しているだけの出来合いの善意が何をなしうるか。

 

映画の中の人物の面影に固有の実存としての人生の光陰がきざさないのでは、物語はドラマを孕まず、産まず、したがって誰から誰への言葉かも判然としない道徳律をスローガン化させるような空虚な善意を空転させるだけのことにしかならず。たとえば『愛を乞うひと』のような映画でありえたなら、言葉はひとの言葉としてひとに伝わりえただろうけれども。