映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

任侠野郎(2016/日本)徳永清孝

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蛭子能収ありきの企画に違いない。しかしそれを逆手に、ちゃんと「映画」を仕上げてみせる。何より志ありきの映画。

 

69分という半端な尺、やくざ映画。しかも主演は一見そこらにふつうにうろついていてもおかしくないおっさん。でもそれが立派に映画になる。演技なんてできなくてもいい。演出さえ、脚本さえしっかり仕組まれていれば映画はちゃんと映画になるということ。偉いもの。

 

大悟演じる若き日の主役のやくざが、単身切り込んで敵対者である組長を斬殺する。だがそこにふと組長の幼い娘らしき少女が現れ、目撃した光景に泣き出す。泣き出す少女のクローズアップから切り返す画面は、少女の涙を目前に見とめて自分のやったことに茫然とするかのような大悟の不安定なバストショット(その背後には揺れ動く室内灯)。この場面は作劇全体を支える大事な場面(出来事)として劇中幾度もフラッシュバックすることになるのだが、そのフラッシュバックのショットも不要に思えるように、大悟の不安定なバストショットは何気なくしかしちゃんと何某かではあるように提示されていて、即ち物語全体を意義的に感受させる要因として機能する。

 

冒頭ショットの温泉施設の着工看板は劇中何度か登場し、そのたび具体的な日数をそこに示して、エピローグでは物語の全体がたった一週間足らずの日数の出来事だったことをさえ律儀に語る。主役の元やくざが営むクレープ稼業、若い姐さんと組員達の相関図、風俗嬢と若いちんぴらの交情、かつての相棒との決闘と共闘、そんなことどもが、69分という商業映画としては短尺の時間の中できちんと物語の有機的な細部として提示される。それらはほとんど、ちょっとしたショットや人物の台詞や動作に込められたニュアンスとして示唆されるだけだが、それで物語は十分に意義的に展開する。

 

アクション一つ撮っても、運動神経などないようなものだろう蛭子能収を立派にかつての侠客に仕立てあげている。カットなんていくら割ったって、それがそれとして見えさえすればなんの問題もない。あるいはアクションならずとも、蛭子能収を映し出すにカットは幾度も割られる。それは何が何やら判然とさせなくさせる為のショットではなく、むしろそれがそれであることを画面の断続の中にイメージとして判然とさせる為のショットでこそあり、だからそれを見つめる者は映画の中のそのキャラクターを信じてしまうことになる。

 

69分という半端な尺で、しかし立派に商業映画として物語を語りきってしまう。かつての任侠映画の定型など全く知らない者が見たとても、物語はまんまと成立して見えるだろう。風俗嬢とちんぴらのしがない交情に、亡き父の影を追い続ける娘の慕情に、自分自身の仕出かした過ちを清算するべく命を賭す元やくざの真情(その顔)に、まんまと真実味を見るだろう(また掛け合いの間合いそのもので笑わせるユーモアにまんまと笑わせられもするだろう)。偉いものだと、そりゃ思う。

 

何気に、役者が皆、自らの役柄に活き良くはまっている。適材を適所に配置できる、それも既に演出だろう。