読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ペイルライダー(1985/アメリカ)クリント・イーストウッド

f:id:menmoku:20170209222017j:plain

 

思うに、映画は意識されざる細部の塊で、しかしそれを生み出すのは一定の企図に基づく意識されたる仕事で、とは言え意識されたる仕事は意識されざる細部の全てには及ばず、では意識されたる仕事によって意識されざる細部の塊として生み出される矛盾した存在としての「映画」なんてものは、果たして実存し得るのか、と。

無論、実存し得る。と言おうか、実存している。なんの問題もなく、あまたの映画が正にそうであるように。

 

亡霊とは、かつて存在していたがやがて存在しなくなったもののことだ。この映画の「牧師」は、映画の中で人の眼の前に初めて現れる場面からして、「そこにいる」から「そこにいた」へのイメージの移行の残像現象の中に身を置いて現れる。そしてそれは必ず人の眼の前でこそなされる移行でもある。亡霊は、必ず人の眼に目撃されなければならない。彼を視認する人の眼あってこそ、彼は亡霊として、即ち不在から在、在から不在への残像現象として映画の中に実存することが出来る。

「牧師」は何故帽子を置いて姿を消すのか。それは帽子という痕跡なくして、彼はそこに戻ってくることが出来ないからだ。本当の映画の中では、全てはなるべくしてなる。神の描く摂理の世界が予定調和に収まるように、なるべくしてなる。だがそれがそのように収まる為には、文字通りに予め定められた未来の痕跡が必要なのだ。つまり、「牧師」は帽子をそこに置いたことで、そこに戻ってくる自分自身の姿を予定調和の摂理の世界の中に描いたのだ。

 

「なるべくしてなる」。しかしどうして、それは現に「なり」うるのか。たとえば「牧師」が悪党の手下のゴロツキどもを伸してみせた後、茫然としていたハルは、伸されたゴロツキどもの様を一旦振り返ってから、さらに身を反面に翻すようにして、つまり一回転して再び「牧師」の後ろ姿を見る。なぜ、“一回転”なのか。だが、その“一回転”が、いわば「牧師」の登場によって映画内の世界の何かしらが反転するように変質したことを示してはいないか。それはごく些末な、なんでもないような細部なのだが、たったそれだけでも、映画内の世界は何かしら変質する。その積み重ねで、映画は映画の虚構を信じるに値する「現実」にまで化さしめるのではないか。

「牧師」の弾痕は背中に遺っている。背中に遺っている弾痕はつまり背後からの銃撃=背信を示唆する。それが背後からの銃撃でないのなら、弾痕は胸に遺っていても不思議ではないが、それはしかし背中にある。一旦は射撃の技量で圧倒した悪童のジョッシュからあわや背中を狙撃されそうになる場面を見れば、一見無敵にも見える彼がそれでも背後からの銃撃に弱みを曝す存在であることが印象として判然する。そんな印象を負う背中の弾痕が最後の対決を経てストックバーンの背中に(言わば)“転写”されることで、これもまた映画内の世界を、「なるべくしてなる」ものが現にそう「なり」遂せた摂理的な世界として完結させる。

 

「牧師」は、しかしなぜ牧師なのか。それは彼が牧師の服装をしていたからだ。牧師の服装が牧師の徴足り得るのは、それが牧師以外に通念として許されていないからだが、そんな通念自体は確たる根拠もない通念でしかないのは、祈り一つまともにあげない「牧師」自身のキャラクターのあやしさ自体が証している。

即ち、牧師は牧師、という無根拠な自己同一が当然に通用する前提としての社会性がそこにはある。映画はその前提を媒体とすることで虚実の裏表を往還しながら、物語を綴ることが可能になる。(だからその前提を喪失する現在に於いては、作劇は心理的・社会的了解自体を言挙げしなくてはならなくなる。)

 

何かがあるのに何もない、あるいは何もないのに何かがある画面。「牧師」の立ち姿のシルエットはどうしてあんなに背後の場景と一体化しているのか。光線の乏しい陰影の中に浮かぶ少女の実存は如何に艶めくのか。白雪の反射光は人物を如何に際立たせるのか。バタバタと寒風にドアをはためかせる小屋の図なんぞ、いったいなんなのか。

総体としての意識されざる印象の中に、曰く言いつくし難い実体を潜ませる。言語的な謎なんて何もない、言語的に何もない謎それ自体としての映画。

 

映画『シェーン』を思わせるあらすじとも言うが、しかし「牧師」を見送る少女の最後の叫びは“come back”ではなく“good bye”だった。飽くまで叙情でなく叙事としての映画。