読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

リップヴァンウィンクルの花嫁(2016/日本)岩井俊二

邦画

f:id:menmoku:20170208232947j:image

 

いわば「リップヴァンウィンクルの花嫁」ならぬ「花嫁のリップヴァンウィンクル」。たとえば「ジュリエッタの魂」でなく「魂のジュリエッタ」であるように。(「リップヴァンウィンクル」ってのがなんなのかは映画見届けた限りではなにやらわからんままなのだが、わからんままのそれでなんの不都合もない。少なくとも第一義には言葉の響き、連なりそのものとしてつづられたところのその名なのであろうから。)


「ランバラルの友達ですから」と、ほとんど目の前の彼女を暗にばかにするようにばかの一つ覚えで繰り返しつけ加える綾野剛演じる人物に、最後の最後に至るまでただただ笑顔で手を振ることしか思いつかない彼女は、たぶんまた同じことを繰り返しそう。繰り返す、と断言はできないが、しかし繰り返しそう。思うに、果断な人物(キャラクター)こそが映画に向いていると言えるとしたら、この映画の黒木華の演じた人物は全然映画に向いていない。向いていないが、それを映画にしたいのがこの映画だからどうしようもない。

 

エサを与えるように一口チョコを自分に与えようとする綾野剛に、黒木華が一見無造作に自分から距離を縮めて横に座る。横に座るその行為は、しかしそのすぐあとに綾野剛によって御丁寧に理屈でその心理を看破され解説されてしまい、解説を聞かされた黒木華はすぐさま恥じ入るように距離を置き直す。たとえばそんな場面でも、人物の心理的な動きが身体的な動きに直結するような、そんな生理的な動静はそこにはない。そこにあるのは飽くまでも綾野剛の解説ありきの、予定調和に準拠する行為の図式化でしかなく黒木華綾野剛が演じる両者に相対のドラマが艶めく瞬間はない。

 

画面が人物と人物の間を直接に切り返さない。直接に切り返さない画面は人物と人物を映画の物語の中で直接に結びつけることもない。画面の中で並列されて曖昧に共存する二人(黒木華綾野剛にせよ黒木華coccoにせよ)の図は、そのまま曖昧な依存や共依存の関係の図でこそあって、少なくとも人間的な対話や協調の図ではない。反面黒木華がPCの画面を通して対面している教え子との関係は、飽くまで黒木華の表情の微妙な変容を通してだけ描かれ、いわば黒木華の心理の鏡面の役をしか果たしていない。(電話の場面では会話する二者を交互に映し出すが、それは逆に二者の距離感を演出するに曖昧。)

裸になる。だったら裸になれ。自分自身が裸にならないでなにがなんだというのか。裸踊りして自分自身を辱めて死ぬか生きるか悩んで苦しんでから笑え。でなけりゃ死んだ彼女の死んだ(生きた)意味さえどこにいっちまうんだか不明になる。どうしてそう半端なままで映画にするのか。現実が半端だから半端なままでいいというのか。「ランバラルの友達ですから」と律儀なまでに言い続けた彼に、せめて「さよなら、ランバラルさん」くらい返して見せろ。それがコミュニケーションだ。それが物語で、それが映画で、それがありうべき現実だ。

そう思う。