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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

断食芸人(2015/日本)足立正生

邦画

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カフカの小説は、たとえ発想の起点に不条理な設定が仕掛けられて始まるのだとしても、それを綴り始めた筆は、けっして自らが綴り始めたその物語の行方を知らない。故にそれは時には正体も不明なまま際限なく継続もし、時には瞬間の劇的な展開=転回で断絶する如くに終息もし、つまりは書き綴られるその物語を書き手自身が自らの生理の内でごく浅く呼吸しながら際どく延命を図るのであって、けっして全体を把握する視点が超越的=予定調和に物語を支配したりはしない。つまりそれは、なんらの尤もらしい寓意など孕んでもいない、裏表もない魂の実話そのものでしかない。

 

この映画のシナリオの鍵は、「四十日」という刻限だ。四十日という刻限を区切ったことで、この映画は観念劇化の罠に堕ちた。四十日という刻限には無論なんらの根拠もない(根も葉もない)が、根拠もないままにそれでも刻限を区切ってしまうその物語へのセンス自体が、この映画をけっきょく退屈な観念劇にしてしまう。事象に言語的に分節化され得る意味を求めてしまう“よわさ”を物語の軸とする限り、映画は物語的な予定調和の軛に隷属することしか出来なくなる。つまり画面の中に現在を実存するものがいなくなる。それはいわば小さな天幕の中で繰り広げられる不条理劇を見るようなもので、見る者は物語の示す予定調和な寓意の追認につきあわされることになる。この映画の中では、たとえば実際の靖国神社で祭礼の日などに見受けられるのかもしれない右往左往のキッチュな笑劇じみた顛末が、クソッタレの糞喰らいたる「断食芸人」の前で戯画的に繰り広げられる様を見せられるだけのことで、その画面の中にはほとんど何も、生きた実存の面影を見出すことは出来ない。

 

何もほとんど、見出せはしない。それでも何かがあったのかも知れないとすれば、それは全身に生傷を負う若い彼女の存在ではあったかも知れない。あらかじめ想像力の限界を設定された不条理劇の中で、若い彼女の存在はそれでもかろうじて典型的な寓意からは食み出していたように見えた。心の内の焦点を目の内にこそ宿して、「何かが出来る」と彼女は自覚し、そしてじっさいなんなのかはよく判らないが確かに「何か」ではあるらしい何かをそこに置いて微笑んで去ることで映画は終わる。その「何か」は確かに見たところグロテスクでキッチュで、しかし定型的な形容にはいまいち収まらない「何か」ではあり、そこにだけは典型的な寓意(言語的に分節化され得る意味)を見透かされない実存の面影は宿っていたかも知れない。

 

つまるところ、掛け替えのないのは右でも左でも上でも下でもひと一人が生きて死ぬ(死んでいった)という事実でこそあり、それを蔑ろにするものは左でも右でも下でも上でもクソッタレの糞喰らいでしかないのには違いない。