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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

山河ノスタルジア(2015/中国=日本=フランス)ジャ・ジャンクー

多国籍映画

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一つ一つのショットが、その内部の時間を消費しきる前にカットされて、次のショットへとつながる。「内部の時間」とは、映画全体の物語的な脈絡と連関した人物や事物の画面の中での流れと動きの総体とでも言い得ようが、画面を暗黙裡に内部から活気づかせているその「力」が失われつつある1テンポ前でカットを切り替える編集を、演出家ジャ・ジャンクー自身が手掛けているのというのはよく判る話だ。なぜならそれが映画全体のテンポをさえ決定づけているからだ。

作劇的な意味では、全篇に亘ってドラマチックであったりスペクタキュラーであったりするシーンばかりで構成するわけにもいかず、必ず中継的なシーン展開はなされるものだろうが、かと言ってそんなシーンに於いてさえ映画を見る者は画面を注視し続けるわけで、とすればそこでも画面自体の活力が失われれば見る者の意識もたちまち弛緩する。だからたとえ中継的なシーン展開であろうとも画面自体は活力を保ち続けなければならないことになる。

ジャ・ジャンクーの映画には、ときに突発的な事件が起こる。事件と言ってもごく些末なものからあれこれあるのだが、たとえばこの映画では飛行機が目の前で突然墜落しさえする。だがそれがそれでも何故か許容できてしまうのは、映画だからなんでも起こり得る、というだけのことではないのではないか。ジャ・ジャンクーの映画には、画面を切る果断さがある。そんな果断さの息づくテンポありこそすれ、そこで突然何が起ころうとも、その画面内の事件が(大から小まで)否応なく事件としての活力をみなぎらせてしまう。たとえるなら、爆竹の爆発は恐らくスローモーションで映し出してもそこから事件としての活力は失われるが、瞬間を瞬間としてタイミングよく際立たせられるならそれはむしろより活力をみなぎらせる。そんな意味で、ジャ・ジャンクーの映画は事件を事件として活かすことをわきまえているとは言えないか。

 

画面が、劇中の時制に合わせて、スタンダードからヴィスタシネマスコープへと横幅を拡大させていく。未来に至るほど視界は広がるが、けっして世界が開けているとは言えず、むしろ空虚な空間が漠然と広がるだけに見えてくる。スタンダードで撮られた過去のパートが、じつのところ最も生々しく、快も不快もひっくるめた人物間のドラマが、むしろ現在形のドラマとして端的に見て取れて(感じ取れて)しまう。往来で不意に男から女へ切り返す画面だの、フレーム外から突然殴りかかる腕と殴られる顔を捉えた画面だの、ちょっとしたところでも画面が活力を率直に発揮する。それだけに過去である筈のそのパートが、むしろ掛け替えのない現在のように息づいている。それに比すれば、ヴィスタで撮られた現在のパートは、そのファーストシーンが階段での集合写真撮影に始まるところからして、既にして過去に縛られた褪せた色合いを帯びている(それでもその人々がばらけていくショットは美しいショットに見えるけれども)。シネマスコープで撮られた未来のパートは、しかし最早画面のスペースが空虚にもて余される。

乗り物も、過去に於いては車、あるいはスクーター、現在に於いては旅客機、列車、未来に於いてはヘリコプターが登場する。過去に於いてはいわば点の移動だったものが、現在に於いては線の移動になり、未来に於いては縦横の移動になる。つまり空間的には移動(運動)の範囲が拡充するが、それによって人と人との距離はけっして縮まらない。空間同士の乖離を無化してくれるはずの携帯情報端末も想いの離れてしまった人と人との距離を縮めてはくれない。

アイテムがそれでも人と人とのつながりの記憶にはなる。むろんあの鍵。人物の間に受け渡されるのはいつも具体的な事物でこそあって、ともすれば失ってしまうかも知れない具体的な事物だからこそ、掛け替えのない記憶のよすがとして人と人との間に受け渡される。(ついでに言えば、家を出ていく男が鍵を屋根に放り投げたり、また帰ってきた男が金槌で鍵を打ち壊したりといった細やかな演出も、心の内や、時の流れをあらわすささやかな演出としてよく効いている。)

 

邦題に於いては「ノスタルジア」とさえ題されるこの映画の物語が、じつは仮想の未来の時制から省みれているということは、多少奇妙な感はある。しかしそれが、「ゴー・ウェスト」の元気なメロディの場違いにも感じられる響きにも通じて、映画を単なる過去への呪縛から自由にしているようにも思える(奇妙に時代的な背景から宙に浮く感じを抱かせるのはジャ・ジャンクーの映画の独特の色でもあるかも知れない)。時代と時代をつなぐのは、必ずしも個人の記憶による物語的な脈絡ばかりではなく、むしろ流行歌や、関羽の神像や、飼い犬や、矛を担いで歩く少年や、タブレット端末などといった細部であって、物語世界を時系列的で単線的なつながり(いわば縦軸)にだけではなく、複線的な可能的なつながり(いわば横軸)にも結びつける。

 

過去から未来への物語の中で、いまだ30代ながら20代から50代までを演じたチャオ・タオの、ともすればこれも宙に浮くようなもっともらしさならぬいかがわしさこそ映画らしい。だからこそのラストシーンにも見える。