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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

渇き。(2014/日本)中島哲也

邦画

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偏見なく見たつもりでも、どうもCF的な刹那的な映像の集成に見えて仕方ない。雨が降っていても誰の体も雨に打たれることはなく、雪が降っていても誰の心に雪が降り積もることもない(ように見える)。そこに広がる世界の奥行きが見えない。敢えてそうしているのなら皮相に過ぎる。

活劇に仕立てることだって出来る題材だが、アクションで面白かったのは役所広司が運転する車の三回に亘る横っ腹ど衝きくらいかも知れない(しかし神経症的なケレンを活劇的と勘違いしたら間違う)。編集は速いが、一瞬見逃しても問題ない類。躁鬱的落差しかない。

尤もらしさという意味でなくドラマ構成の配分として、あのやさぐれ男にまずまともな妻子を一度でももつことが出来るとも思えない。あんな見てくれだけでも立派なマンション住まいとか無理じゃないだろうか。見てくれが清廉でもなかみは腐敗、みたいな造形自体にウソしか感じられない。(不良少年の母親の如何にも生活感のない「生活の腐敗」ぶりとか。)

「命は大切だから人は殺したらいけない」みたいな児戯じみた空疎な観念論を巡って倫理を語るような空回り感。それもまた広がる世界の奥行きのなさとして帰結する。

 

映画には映画なりに世界(社会なり人間なり)を表象する枠組はあるんじゃないだろうか。雨が雨であり、風が風であり、人が人であり、時は時であり、というように。それはやはり画面として顕わになる。躁鬱的に事物や人物が右往左往するほかない画面にそれは映らない。映画に映し出せることなんぞごく些末、些細に限られていて、しかしそのごく些末、些細に限られている何かからしか見出すに値する世界も開けない。