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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

火の山のマリア(2015/グアテマラ=フランス)ハイロ・ブスタマンテ

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少女のクローズアップから映画が始まる。しかし少女の目は終始伏せられ、けっしてキャメラを正面から見据えたりはしない。背後に母親らしき女性があらわれて、少女の身繕いを仕上げていく。

母親と少女が豚を一頭引き摺ってあらわれ、飼育檻の中で雄雌双方に酒を含ませて交尾をけしかける。キャメラはしかし、交尾をけしかけられた豚どもの痴態など無論映すこともなく、ただそれを黙って見下ろす少女の面影を背後からクローズアップする。周囲の山肌を抜ける微風が静かに少女の髪を揺らしている。

 

肖像。少女は多くの場面で、ただ静かに佇んでみせる。ときに行方の知れない視線や方図の知れない微笑をもらすその様子は、心理の起伏の表象としてでなし、ただその人がその人だという無二の同一性をわずかな表情の振幅の中に潜ませて画面の中で実存する。何も考えていないわけでもない筈なのに、何を考えているのかはわからない。わからないがそれでも彼女はそこにいる。その実存していることの輪郭を一言にすれば、「肖像」とでも言いたくはなる。

少女にほとんど表情らしい表情を許さなかったのは、あるいは演出なのかも知れない。ひょうひょうと鳴り続ける空っ風に吹かれるどこぞ見晴らしのいい場所で、青年が「やさしくしてくれたら…(アメリカに連れていってやる)」と呟けば、少女は青年に視線をうつしつつうっすら表情をほどけさせるようにして「いつもやさしくしてる」とだけ応える。ほんのちょっとした瞬間の表情のやさしいほつれが、終始ほぼ笑いも泣きもしない肖像として実存する彼女がそれでもなにかの心を秘めた人であることを当たり前に示す。

 

豚のように、人もまた地に張りついて生きている。そのように映画は人々を描き出す。豚が酒をけしかけられて交尾にはしるように、若い男女もまた酒の勢いに任せて互いに体を重ねる。不義の子としてでも確かに少女の娘として産まれ出た筈の赤子は、しかし少女の娘として育てられることもなく、生死さえ判然としないまま少女のもとからひき離される。母親は少女を気遣う。肥えた豚のように豊満な肉体の母親が、まだ若い細身の肉体の少女を女同士の情誼を示して懇切にいたわる。

 

ドラマを撮っているようには見えない。映画は人間的なドラマになどさして関心もないように、むしろ人々の足下の火の山の大地をこそ意識させる。コーヒーノキ林、斜面、道路、丘陵、遠景の山影。空っ風は斜面を絶えず戦ぎ抜け、何某かの粒子が空気中を舞い、火の山の唸りが通奏低音のように響き続ける。そんな生存の場所の中で、人々が如何に地に這いまわりつつ暮らすのかを(大地の呪縛としての蛇…)、少女の寡黙な肖像に託して描き出す。しかして映画は、少女に始まり少女に終わる。彼女はただ目を伏せたまま、全てを呑み込んで花嫁となる他ない。