映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

蜜のあわれ(2016/日本)石井岳龍

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アクタガワ=高良健吾の喋繰らない時の肖像(陰影)、永瀬正敏の「俺もつれてってくれ…」の時のしかつめらしい、そのじつ呆けた表情(笑える)、二階堂ふみの「母になるんですもの…」の時のクローズアップ、大杉漣のへっぴり腰、真木よう子や渋川清彦のあからさまな横(幽霊)移動(笑える)。
それくらい。

映画で男女の裸体の絡み合いを映し出しても決してろくな画面にならないのは何故だろう。1ショットで撮ろうがカットを割ろうが、肉体がゼロ距離で接触することで、触れること=触れられることの機微が全然見て取れなくなるからか。それに準じて、罵り合いや取っ組み合いも見ていてあまり愉しくない。そういうところこそじつはカットを割ってアクションのテンポをずらして組み立て直すなり、人物間に物理的媒介を差し挟むなり、何かしらの工夫が要るのじゃないか。

ゴダールでも清順でも、どんな物語の題材であってもフルショットとカットの使い分け、割り方次第で画面に運動感が生まれてくることをよく知っていて、それで映画が如実に活気づく。恐らく生理的なセンス=才能の次元の話でいかんともしがたいにせよ。

(『万事快調』のガラス越しの男女の瞬間の触れあいの交感は、それだけで逢瀬のせつなさを滲ませていたし、『ツィゴイネルワイゼン』の生ける屍の如き大谷直子のエロスは、被服かまわず発散されていた。それらは飽くまで映画(演出)でこそ生み出される色気であって、素材(演者)の色気でないところが凄かった。)